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朝のゴミ拾い日記  (その2)

  • 2019年11月30日
  • 2019年12月3日
  • 日記
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  公園を出て最初の十字路。ここから次の団地までの道路脇や植え込みの中にゴミが多く捨てられている。住宅街にゴミが殆どないのは、「向こう三軒、両隣」の掃除の風習が多少は残っているからだが、掃除の手が届かない一帯に差し掛かったので、可燃ゴミ用と資源ゴミ用の2種類のゴミ袋にそろそろ出番だぞ、と声を掛ける。 歩きながら拾うのだが、缶やペットボトルは相変わらず多い。

   いつも不思議に思うことだが、ペットボトルはまず、ほとんどが蓋(ふた)を閉めてある。日本人の律儀さ、真面目さの一端?誉めすぎ? たまに、ほとんど飲んでいないものがある。あれは、どういう心理なのだろうか?考えても、無駄なこと? 缶やペットボトルを植え込みの下や中に隠すように捨てていく。そこには捨てる側の後ろめたさが多少感じられる。ペットボトルの蓋はその罪滅ぼしなのか?「今日はやけに蓋にこだわっているし、捨てる側にやけに好意的だね」。

  缶、ペットボトル以外に最近目に付くのが、食べ物類のビニールゴミ。これは食べ歩きをして、そのゴミが邪魔になって道路に捨てているからだろう。オニギリやお菓子の包み。飲み物のカップやテトラパック。サラダの愛好家もいるらしい。食べ歩きのヘンな習慣が定着してしまったということだろう。 一昔前の日本人は食べ歩くことはしなかった(飲み物は別。一応、念のため)。食べることは動植物の貴重な生命をいただくことと考え、だから「いただきます」と手を合わせて行儀良く座って食べるもの、それが生命を奪った側のせめてもの礼儀という考え方を、日本人はもっていたからである

  ところが、文明開化とともに西洋の弱肉強食の考え方が日本に入ってきた。強き人間が生きていくために他の動物はもちろん、植物を食することは無条件で許されるし、そこにはしきたりはない。しかし、マナーはある。ただ、それはあくまでも人間どうしの快適な空間を保つためのものである。食に対する考え方の違いが民族や国によってあってもいいし、当然のことかもしれない。

  ところが日本民族は、対立があった場合、孤高を持するよりも異質なものを採り入れようとする力の方が強く働くのである。これは、日本民族の根底に流れている農耕民族の「血」が作用するからであろう。農作業は足並みを揃えて、共同して行なわないと能率が悪い。稲作文化5・6千年の歴史の中で培われた「和のDNA」を日本人はもっている。だから、日本人は合唱や祭りなど皆んなでワイワイするのが好きなのであるが、そんな性向が良い方向に作用することもあれば、裏目になることもある

  ちなみに中国大陸、朝鮮半島の人たちは狩猟民族であるが、彼らの中には拡張主義の「血」が流れている。なぜか。領地が広ければ広いほど獲物を多く獲る可能性が広がるからだ。農耕民族はある程度の領地の広さは必要だが、それ以上になると労働の量が増え、苦しみが増えると思ってしまう。領地(土地)に対する感覚が全然違う。狩猟民族は獲物を獲るために、何日も野山を駆け巡り、もし獲ることができなければ命が危ういという生存競争を生き抜く中で「闘争のDNA」を育んできた。このように同じアジア人でも、永年の生育環境の違いが民族のDNAに作用している。

 話を食文化に戻す。何でも融和的に取り込もうとする日本民族であるが、衣食住については自分たちの生活そのものなので、頑なに守る力が働いていた。それが破られる小さなきっかけが明治の開国であり、大きなきっかけは昭和20年の敗戦である。

 もともと「和の民族」は基本的には気が弱いので、力で圧倒されてしまい自信喪失となる。その間隙を縫って、西洋の食文化が一気に日本社会に広がっていった。学校給食のパン、牛乳(戦後しばらくは脱脂粉乳)、スパゲティ、スプーン、フォークで洋食に慣れさせておいて、1960年代に日本上陸を果たしたファーストフードの食べ歩きの軽食文化が日本を席捲するようになる。それと共に、道路にゴミを落としても平気な日本人が増殖することになる

 道路のゴミの増加は、食べ歩きだけが原因ではない。無神論者と利己主義者が増えていることと関係がある。これは今の教育と関係があるのだが、学校では宗教教育はしないし、できない(私立学校は別)。だから、宗教的なしきたりや教え・考え、お墓参りやお盆の迎え火・送り火などは家庭で教えるしかないのだが、大家族制が戦後急速に崩れているので、それも伝わらなくなっている。

 神社神道が民族宗教なのだが、そのことすら分かっていないし、初詣だけのお付き合いという人も多いのではないだろうか。 宗教心は誰もがもっているが、育てられなければ無神論者になってしまう。無神論者は容易に利己主義者、いわゆる「自己中」という輩に変身しやすいので、長いスパンで日本の宗教教育を考える必要がある。それまでは、各家庭で親が頑張るしかないというのが現状だ。

  「さあ、ぶつぶつ言っていないで拾うよ」。分かった分かった、農耕民族の長所は切り替えが早いところだからね。ただ、相変わらずタバコが多い。「いいから黙々と拾えよ」。上手いね。タバコとモクモクを掛けたね。しかも今日は木曜日だよ。(すいません、お後がよろしいようで…)

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