(2020/2/15日書いた文章です)
「謝るべきなのは、立憲民主党の辻元清美幹事長代行の方ではないか」と指摘するのは「産経抄」(2020.2.15日)です。全くその通りだと思います。「朝日」「毎日」「東京」は、辻元氏側の立場での報道姿勢。「朝日」は辻本氏の発言内容すら報道していない。感覚がおかしいマスコミが多いと思っています。
謝るべきなのは、立憲民主党の辻元清美幹事長代行の方ではないか。安倍晋三首相が12日の衆院予算委員会で辻元氏にヤジを飛ばしたことを口実に、13日の同委を流会させたのは筋が通らない。抄子が天邪鬼(あまのじゃく)なせいか、主要野党が居丈高にこのヤジを批判していることに、攻守があべこべだと感じる。
▼「タイは頭から腐るという言葉をご存じか」。辻元氏は予算委でこう切り出し、安倍首相に対し「子供の教育にも悪い」だの「頭を代えるしかない」だのと一方的に主張して質問を終えた。これに安倍首相が「意味のない質問だ」と言ったことが問題視されているが、その通り無意味な質問そのものである。(産経抄)
国会は「国権の最高機関」なので、お互い礼節をもって議論をしていただきたいと思います。国会の中から指名選挙によって選ばれた総理大臣に対して、「腐る」という言葉を使って人を怒らせておいて、挙句の果てに謝罪要求するという、どういう感覚をしているのかと思います。
さらに驚くのは、マミコミの報道。特に「朝日」はヒステリックに叫んでいます――「国会を大きく混乱させた自身のヤジに、安倍晋三首相は悪びれる様子もない。こうした振る舞いの悪質さは憲政の歴史をひもとくと、より鮮明になる」と。そして、この文章が書かれた同じ紙面に安倍首相の立ち姿の写真にセリフをいれたものを載せています。その中に「意味のない質問だよ(20年2月)」も入っています。何も知らない読者は、このページだけ見ると、安倍首相は立ち上がって、少し怒ったような顔をして「意味のない質問だよ」と言ったと判断するでしょう。一種の印象操作が行われています。
この紙面の一番上に1段抜きで「首相ヤジ問題 予算委流会――『意味のない質問』17日に釈明」との見出し。記事の最後を締めたのは、自民党元幹事長の石破氏の談話。「罵詈雑言を浴びせられようが平身低頭。審議をお願いしているのはこちらだ」というコメント。
このような考えは、『東京新聞』の「社説」(2020.2.14日付)の考えと軌を一にしています――「国会は議員の質問に答える場であって、政府による反論や宣伝の場ではない。たとえ相手が野党でも、首相らが敬意を払って審議に臨むべきは当然だ」。国会についての、この見解の法的根拠を示して欲しいと思います。
国会は国にとって重要な事項について、議員同士同じ立場に立って、立法審議をするところです。議員には法的素養が求められるのは当然であり、質問も行政や今後の政策に関わる法的問題点に絞られるべきでしょう。そして、質問や提案が素晴らしければ、その方に誰もが敬意を表するようになるものであって、大臣が最初から平身低頭で御用聞きのように議員の質問に答える場ではないと思います。
それから、ヤジというのは不規則発言のことです。相手の質問中に相手を貶めるような意図で、直接関係のない第三者が発する言葉です。安倍首相は辻元氏の「腐る発言」をすべて聞いた上で、自席から「意味のない質問」とコメントしたに過ぎないのです。辻元氏と安倍首相の2人は、質問をし、答えをするという当事者同士であり、安倍首相は関係のない第三者ではありません。そして、実際に、彼女の発言は単なる悪罵なので、立法的な価値もなければ、意味もないというのは正しい指摘だと思います。こういうのを、ヤジとは言わないのではないでしょうか?
もう一つ気になるのは、内閣と野党を使用者と労働組合の関係のようなものとして捉えていることです。内閣は立法が選んだ行政の執行部です。国会の中から選挙によって選ばれた以上、その結果を尊重して、内閣の各大臣に対して、媚びる必要はありませんが、失礼のない態度で接していただきたいと思います。
さらに、共産党と立憲民主党は日本を階級社会と思っているフシがあります。それは、大いなる勘違いです。明治維新を経て四民平等となり、現在は高度に発展した資本主義のもと民主主義社会が成立しています。封建社会は、士農工商という身分制社会であると同時に、階級社会でしたが、この令和の時代は、そうではありません。さまざまな階層に分かれてはいますが、階級社会ではありません。
階級とは、固定的身分制度が基底にあり、さらに経済的利害関係が対立する一定数以上の集団です。共産党は資本家階級と労働者階級という言葉を使いますが、資産家はいますが、それはただ多くの財産があるというだけで、身分が保障されている訳ではありません。現に、資本家であり、資産家であっても会社が破産すれば、ただの人になります。逆に、普通の市民が起業をして資産家になることもあります。このような事例があるということは、固定的な階級社会ではないということです。
固定的身分制度そのものが存在しないため、革命は成り立ちません。にも関わらず、日本共産党はその綱領で「民主主義革命と民主連合政府」という項目を設けて、「日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革を内容とする民主主義革命」と言っています。改革と革命の言葉をわざわざ使い分けています。
現行法の想定する範囲内において行われるのが改革であるならば、革命は想定外のことを考えての用語使用ということになり、その意味するところは物理的な手段、つまり暴力的な手段もあり得るということが論理的に導き出されます。
安倍首相が13日の衆議院本会議で「共産党は現在も『暴力革命』の方針に変更はない」と答弁をし、それに共産党となぜか立憲民主党が抗議したとのこと。抗議は一種のポーズだと思われます。
本当にそうでないというならば、「綱領」から「革命」の2字を取れば済むだけの話です。誤解だと言うのであれば、まず先にその作業を行うようにしてみて下さい。
読んで頂きありがとうございました