
「今日(6/19)の『あんぱん』も結構ショッキングな内容だったですね」

「どうしてリン君は岩男をピストルで撃ったのか、それが疑問だったのですが、親の仇という設定なんですね」

「幼い子供が大人に銃を向けなければいけないのが、戦争なんですね」

「崇(たかし)が倒れて一体どうなるのかと思っていたら、お父さんが夢に出て来たのですね」

「さり気なく、彼に進むべき道をアドバイスしていましたけどね」

「あの辺りはライターの創作だとは思いますが、とにかく食料が届いて良かったと思いますが、あのようなことが本当にあったのですか?」

「食料がなくなっての栄養失調は普通にあったと思います。兵站(へいたん/輸送、補給)が軽視される傾向にあったのは確かです。いろんな人が指摘をしています」

「それはどうしてですか?」

「女性の感覚だと、それが一番重要と思うかもしれませんが、戦前の軍隊は正面装備の武器、弾薬が第一でそれ以外は二の次といった感覚だったようです」

「上等兵が「占領地良民を己が同胞兄弟と心得、保護善導育成すべし」という貼り紙を破り捨てます。本当にあのようなことを書いて貼っていたのですか?」

「たぶん貼っていたと思います。紙芝居もそうですが、住民に対して「味方」であることをアピールして、日本の統治がスムースに行くように考えていたと思います」

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「X」提供です」
経済力を無視した無謀な開戦
1937(昭和12)年7月の日中戦争勃発から、アジア・太平洋戦争の敗戦までに、約230万人の日本軍兵士が命を落としました。驚くべきことに、その多くは戦闘による死ではなく、栄養失調や病気、船舶の沈没、そして捕虜になることを恐れた同士討ちといった間接的な要因によるものでした。
なぜこのような事態に至ったのか。端的に言えば、国力に見合わない戦争に突入したからです。たとえば、1941年の開戦当時のGNP(国民総生産)は、日本が449億円に対し、アメリカは5,312億円と、実に11.8倍の差がありました。本来、軍事力は経済力に比例しますが、日本は国家予算の4分の3を軍事に投じ、アメリカと対等な戦力構築を目指しました。
たしかに、海軍の戦力ではアメリカ142.6万トンに対し、日本は97.6万トンとある程度の対抗はできていました。アメリカは大西洋にも戦力を分散する必要があるため、太平洋に限れば「見かけ上」同等とも言えます。陸軍も日本が212万人、アメリカが160万人と、日本の方が兵力は多く、航空機中隊数も大差ありません。しかし、戦争は前線の兵力だけでは成り立ちません。長期戦になればなるほど、後方支援・補給体制の整備が必要です。日本はその点で大きく劣っており、準備不足が兵士たちを極限状態へと追い込みました。背伸びをして、背の違いは何とかカバーできたものの、体重、体力、栄養状態などを考えなかったということです。
(「新潮社Forsight」)
いまだに先の戦争の名前が確定していない
敗戦から80年近くが経とうとしていますが、日本ではいまだに先の戦争をどう呼ぶかが定まっていません。教科書では「太平洋戦争」と記されていますが、「日中戦争」「日ソ戦争」と呼ぶこともあり、「大東亜戦争」という表現も存在します。後者は戦後GHQにより禁止され、長らく公的には使用されませんでしたが、21世紀に入り再び使われるようになり、新聞『産経』などでは見出しにも使われています。
このように名称が定まらないのは、戦争の総括が未だなされていないことの表れです。この80年、日本では各立場からの主張が繰り返されるばかりで、客観的な議論は遅れてきました。実は、ようやく1980年代以降になって日清、日露戦争の総括的な本が出版されるようになったのです。『戦略 日露戦争』(島貫重節・1980年)、『日露戦争と日本軍隊』(大江志乃夫・1987年)、『日本の戦争』(田原総一朗・2000年)、『日清・日露戦争』(岩波新書・2007年)など、分析的な視点に立った書籍が登場し始めたのです。今回のブログの参考にさせてもらった吉田裕氏の『続・日本軍兵士』(中公新書)も2025年に出版されたものです。
また、日本社会の「忖度文化」も議論を阻んできた要因の一つでしょう。関係者が生存しているうちは、本音を語ることすらはばかられる空気がありました。最近ではNHKの朝ドラ「あんぱん」が、戦争を批判的に描く内容で話題となっています。抗議の声も予想されますが、80年を経て、ようやくテレビでもタブーに踏み込めるようになったことは注目に値します。
(「毎日ことばplus」)
戦地の現実と兵士たちの苦悩
1937年7月7日、盧溝橋事件によって日中両軍が武力衝突し、日中戦争が全面化しました。この戦争において特徴的だったのが、戦地における病死の多さです。特に栄養失調からくる体力低下と精神の疲弊が目立ちました。ビタミンの欠乏や生鮮食料品の不足により、健康を保つことは困難を極めました。加えて、日々の行軍は毎日40~50キロに及ぶこともあり、まさに仏教の荒行にも匹敵する過酷さでした。しかし、荒行には終わりがありますが、戦地の兵士にはそれがありません。極限の状態が、精神疾患の増加を招きました。
兵士のうち任務遂行が困難とされた者は、内地に還送されます。これを「還送戦病患者」と呼びますが、1942〜43年には全体の約10%が精神病患者であり、1944年にはその比率が22%にまで上昇しました。
補給は、公式には存在していても現地調達が原則でした。朝ドラの描写とは異なり、日本軍はしばしば中国の市場や民家から食料を徴発しており、民衆から「蝗(いなご)軍」と恐れられていました。これは、日本軍が通過した後に何も残らないことから来た呼び名です。ドラマの中で「これのどこが正義の戦争なんだ」と兵士・崇がつぶやくシーンがありましたが、現場の兵士たちの本音として、多くの兵士が同じ思いを抱いていたのではないでしょうか。上層部が「大東亜共栄圏」と大義を語っていても、実際に兵士たちが見ていた風景はまったく別のものだったのです。
(「いらすとや」)
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