
「子どもの自殺者が減らないので、文科省はパブリックコメントを募るみたいですよ」

「私に言わせれば、それは一種のブラックジョークです。この国の実態に合わない全国一律教育そのものが原因をつくっている面があるからです」

「文科省をなくしたら解決すると言うのですか?」

「地方には教育委員会がありますので、そこを中心に地域教育を創造するということだと思います。文科省をなくすか、黒子役に徹するか、どちらかが良いと思います」

「今はシャシャリ過ぎということですね」

「教育現場を知らない人たちが、国の教育指導の方針を決める。それはどう考えてもおかしいですよ。戦前に戦場を経験せず、陸軍大学を出ただけの軍人官僚が作戦を立てて失敗を重ねました。同じ過ちをしていると思っています」

「自殺の問題に話を戻しますが、今は何人位自殺をしているのですか?」

「2024年(令和6年暫定値)では、児童生徒(小中高生)の自殺者数が 527人 と過去最多を見込んでいるという報道がなされており、確定値でも500人を超える水準が続いています」

「少子化で子どもの数が減っているのに、自殺者は増えているのですね。527人ということは、2日で3人の子どもが全国何処かで自殺しているということです」

「自殺という行為は、複数の要因が重なり、臨界点を超えて発現するものだと考えるのが妥当です。学校や家庭、さらには友人関係などが組み合わさって自殺に至るリスクを高めると考えられます。ただ、最新の把握でも、背景「不明」が約半数という数字が報告されています。つまり、要因が複合的に絡み合っていると思われます」

「「社会構造の歪み」が根底にあるということでしょうか?」

「単純な因果関係で説明できない場合は、そういうことだと思います。ここからが本論です ↓ 表紙写真は「リディラバジャーナル」提供です」
物質的豊かさの中で失われた「生きる意味」
今日の日本社会では、衣食住が保障され、学ぶ機会も整っています。それにもかかわらず、子どもの自殺は年間五百人を超え、戦後最悪の水準に達しています。これは単なる家庭や学校の問題ではなく、社会全体の構造的な歪みを映す現象です。物質的なものがある程度保障されたとしても、精神的に満たされていなければ、人間は死を考える動物です。それは大人も子供も同じです。だから国と社会がまず最初に考えなければいけないのは、子供を含めた国民の精神的な満足感を保障することです。経済成長も大事ですが、それだけでは国民は幸福感を感じることはできません、
聖書に「人はパンのみに生きるにあらず」という言葉があるように、人は精神的な満足感のために生きる動物と言えるでしょう。それでは、どのような時に精神的な満足感を多く得るでしょうか。人は社会的動物なので、人との繋がりの中で精神的な満足感を得ることができます。家族のメンバーとして認められている。学校や職場で自分自身が受け入れられている。こういった感覚があれば自殺はしません。そして、もう一つ重要なことは、自分の中の自分との繋がりです。アメリカの心理学者のエリクソン(1902-94)は、それをアイデンティテイという言葉で表現しました。アイデンティテイというのは、簡単に言うと自分の適性・能力の発見です。自分自身を発見し、自分の人生の方向を見つけた時に人は精神的な満足感を得ることができます。
要するに、人間は他人と結びつき、内なる自分と結びつくことによって人間として成長できるのです。かつては地域の共同体の中で生活していれば、そのことに気付き自然に子どもたちは成長できたのです。ところが、ジェンダー論といった家族解体イデオロギーが蔓延する中で、社会から母性が喪失し、家族の人間関係が希薄になり、地域や職場が共同体としての機能を失う中で、人間として成長できる途(みち)が閉ざされがちになっています。子供は社会の鑑(かがみ)と言います。社会の微妙な変化を子供たちが受け止め、絶望感を抱いた子どもが増えているということだと思います。
(「毎日新聞」)
形式的一律教育という構造的暴力
この構造の中核にあるのが、中央集権的な教育行政です。文部科学省は依然として、全国一律の学習指導要領のもとで教育内容と評価方法を統制しています。明治期に「国民統合」を目的として設計された仕組みが、二十一世紀のいまも形を変えずに残っているのです。そこでは、教育は「人間を育てる営み」ではなく、「同一規格の人材を量産する制度」として運営されています。
この制度のもとで、教師は個々の子どもを見つめるよりも、カリキュラムの達成度を重視し、学校は学力テストの点数を競い合うようになっています。個性を伸ばすよりも、評価基準に合わせることを求められ、逸脱すれば「問題児」とされる。しかし、子どもたちにとっての関心は、自分探しにありますし、友人や社会との繋がりです。一律的教育は、外見上の秩序を保ちながらも、内面の多様性を奪い、点数による自己否定と孤立を生み出す温床になっています。
にもかかわらず、文科省は子どもの自殺増加に対してパブリックコメントを募ると発表しました。教育を画一化してきた当事者が「国民の意見を聞く」と言うのは、まるでブラックジョークのようです。本来問われるべきは、ビントがずれている今の教育行政をどのように立て直すのかが検討されなければいけないですし、そもそも中央省庁が子どもの未来を一律に設計するということ自体認められるのか、といった根本的なことが問題となっています。
(「note」)
中央集権の終焉と教育の自治
教育は本来、地域社会と家庭が主体的に担う営みです。にもかかわらず、日本では依然として中央官庁が教科書の内容から学習時間、教育予算、教員配置に至るまで細部を決定しています。これは教育の自由を奪うだけでなく、地域の文化や歴史に根ざした多様な学びの萌芽を摘み取るようなものです。先進諸国の多くは地方分権型を採用し、学校運営や教育課程を自治体や学校が主体的に決めています。日本もそのかたちに早く移行することです。そうすれば、自殺者は減少に転ずるでしょう。
アメリカでは、トランプ政権が連邦教育省の廃止を打ち出したことも象徴的でした。教育を“国家の下部組織”としてではなく、「地域の創造活動」として再構築する流れが世界的潮流になっているのです。
日本も、今こそ教育の主導権を中央官庁から地域と学校へ返還すべき時です。全国一律の「正解」を押しつける時代は終わり、子ども一人ひとりの生き方を支えるための教育自治へと転換しなければなりません。自殺という悲劇を減らすためには、制度改革より先に、「教育とは何のためにあるのか」という教育学の原点に立ち返る必要があります。個性尊重の時代です。個々人が自分のアイデンティティを確立できるような指導が望まれます。それさえ確立できれば、人生行路の方向性が定まります。 子どもを「国の資源」ではなく「かけがえのない存在」として見る社会に変わること――それこそが、教育行政の呪縛を解き、子どもの命を守る第一歩なのです。
(「You Tube」)
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