「昨日は、韓非子の話を興味深く聞かせていただきました。初めて聞くようなことばかりでした」
「高校『倫理』でも名前程度の紹介ですからね。孔子の思想を受け継ぐのが、孟子と荀子ですが、荀子の門人の一人が韓非子です」
「孔孟の教えとは言いますが、どうしてそこに荀子が入っていないのですか?」
「人間観が180°違うからです。孔子と孟子は基本的に人間は善なる本性をもっていると考えたのに対して、荀子は人間の本性を悪と捉えたのです」
「いわゆる、性悪説ですね」
「それを体系的に法家(ほうか)思想として打ち立てたのが韓非子と言われています」
「中国が法家思想をベースにして統治を考えているのは分かりましたが、私は中国はてっきり儒教の国だと思っていました。中国の山東省には、かなり大規模な孔子廟もありますし、日本に孔子学院も作っていますよね。どのように考えれば、良いでしょうか?」
「儒教というのは、庶民向けなんです。つまり、中国の統治の考え方は2本立てです。国家の統治については、法家思想を使い、庶民に対しては、儒教による仁や正義をすすめるというものです」
「それを説くことによってキバを抜き、法家思想によって強権的に統治するということですか。ただ、2つの考えが社会の中で混じって、混乱が生じるということはないのですか?」
「混乱が起きることは当然あるでしょう。実際に、香港で起きています。ただ、絶対的に効果があるという思想や考え方がある訳ではないのです」
「そりゃあそうですよね。それがあれば苦労しないですものね」
「ベストの統治システムを求めて、人間の試行錯誤はこれからも続くと思います」
「ここからが本論です ↓」
中国歴代王朝は、法家思想によって統治をした
「人の性は悪、その善なる者は偽なり」と説いたのは荀子です。人は生まれつき欲を持ち、利を貪る生き物であると考え、その人間を礼によって治めることが必要と説きます。その考え方を法と制度論に高めて体系的に仕上げたのが韓非子です。
中国の漢代以降に成立した王朝は、どの王朝も表向きは儒家を尊び、孔子廟をつくって祀り上げていますが、実際の政治運営は法家思想によって行われてきたのです。
法家思想が考える人間像というのは、外見的な違いや身分の違いなどがありますが、すべて人間であるという点においては違いはないというところから出発します。そして、人間である限り利己心をもち、欲望をもち、利を得るためならば何でもするような存在として捉えます。
そういった人間観をもった皇帝は、家臣とは信頼関係で繋がろうとはしません。家臣は皇帝に一番近い距離にいるため、一番警戒すべき人間と考えます。それでは、どうすれば良いのか。そのことについて韓非子は「臣下が自分を欺かないことを当てにするのではなく、臣下が欺こうとしても欺くことのできぬ自らの明察を当てにするのである」(『韓非子』第33章)としています。「明察を当てにする」が分かりにくいかもしれませんが、要するに人を見抜く力をつけて、その力で自分を守れと言っているのです。
(「You Tube」)
法家思想のもとでは、権力者は暴君になりがちである
法家思想が中国を覆い尽くしたのは、西尾幹二氏によれば漢の時代以降だといいます。つまり、この約2000年間、人間不信と猜疑心を常に持ち続けた皇帝によって中国の統治はなされていったということです。
そういった考えのもとで権力者が政治を行うと、どうしても暴君となりがちです。なぜなのか。1つは、法家思想が説く人間像ですが、本能むき出しの人間が極めて自然といいます。皇帝といえども人間なので、欲望むき出しの存在。であれば、思ったように振舞っても許されるということになります。2つ目は、権力を誇示すればするほど、周りは恐れおののくことになります。そして、それを繰り返すことによって反抗の芽を摘む効果も上がります。臣下の人間も、打ち倒すことを考えずに、この男に付いていこうと考え始めます。その反応を見て、暴君振りが加速度増すことになります。
石平氏が著した『謀略家たちの中国――中国四千年の悲哀』(PHP研究所、2009年)という書があります。劉邦、項羽、曹操といった古代の統治者から始まって、袁世凱、毛沢東、周恩来まで12人の権力者を紹介しています。
石平氏は最後のむすびのところで「このような欲望剥き出しの世界から生み出されたのは、……栄華富貴権力への己の欲望を最大限に満たすという究極の目的がまずある。……その際、権力や地位や富の獲得という目的の達成に役に立つかどうかがすべてなので、他のことはどうでもよい」(石平 前掲書、129ページ)と批判しています。「要するに、目的達成のために役に立つ方法であれば、それが詐欺であれ偽善であれ陰謀であれ子殺しであれ、何でも用いられるのだが、目的達成のために役に立たないもの、あるいは目的達成の邪魔になるようなもの、それが節操であれ信義であれ良心であれ人間の尊厳であれ、すべてが放棄されていくのである」(同上、130ページ) とし、「このような割り切ったことのできる人物ほど、中国史上の大物となったりキーマンとなったりして歴史を動かしてきた」(同上、130ページ)のですと、まとめています。
法家思想をベースに国家を作ってくれば、その国の英雄として認知された者は、必然的にそういった人物になるでしょう。
西洋には「ノブレス・オブリージュ」(高貴なる者の義務)という考えがあります。ノブレスというのは、高度な文化的教養を積むという特別な環境にある者という意味ですが、そういった境遇の者は、社会にたいして返礼の責務(オブリージュ)があると説くのです。日本には武士道の考え方がありますが、この根底には、人間は自己の欲望を抑えれば抑えるほど美しく生きることができるという共通の価値観が流れています。国交を結ぶ際に、お互いの国民同士、価値観を共有できるかどうか調べるべきなのです。考えが足りない政治家をもつと、その国の国民は不幸になります。
(「木下空公式ブログ」)
法家思想と共産主義思想
成立した時代が全く違うこともあって、両者を比較して論じた人は今まで誰もいないと思いますが、発想は大変よく似ています。
法家思想も人間の欲望をそのまま認めますので、完全な唯物論です。共産主義思想は階級史観をベースにしていますので、同じ国内の人間や組織に対して、敵味方の色分けをします。実際に日本共産党は野党連合とは言いますが、与野党連合とは言いません。アメリカ帝国主義と独占資本主義は、日本人民にとっての2つの敵と言います。敵と味方は見ただけでは分かりませんので、周りに対して警戒をするようになります。
日本共産党は民主集中制という名の党内独裁体制を敷いています。彼らは多分、現場で柔軟に判断することを大変嫌うと思います。私は党員ではありませんので、具体的には言えないのですが、思想的な傾向を日常活動に当てはめると、そういう傾向があるだろうと推測できます。先般、アフガニスタンから日本関係者の退避をどうするかということが話題になった時、自衛隊派遣について日本共産党は反対しています。彼らの頭の中に、憲法9条があり、その趣旨から少しでも逸脱するようなものは絶対に認めないということです。
アフガニスタンで助けを求めている日本人やその関係者がいるという状況の中、自衛隊機を飛ばすしかないという切羽詰まった状態です。それでも尚且つ憲法9条に基づいて判断しようとする。この発想は、法家思想です。
前回のブログで『韓非子』の中の逸話を紹介しました。うたた寝をしてしまったご主人のために上着を掛けてあげた人を処罰することは、法家思想の考えからすれば正しいのです。すでに決められたものから出発するというのが、法家思想の発想ですが、その発想は共産主義思想と同じです。法家思想の伝統的な広がりが共産主義中国を産んだとも言えます
(「ザ・リバティWeb」)
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