「天安門事件からはや35年だそうです。あなたは小学校に行くか行かないか位だと思いますので、知らないでしょ?」
「事件の名前を知っている程度です。何日か前にNHKで、アメリカで事件の追悼集会をしているシーンが紹介されていましたが、見ましたか?」
「中国からアメリカに亡命した男性がその行程と集会の様子を自撮りしたものを放送していましたね」
「NHKにしては、凄いなと思いながら見ていました」
「もしかしたら、何年かしたら、そういうものは危険ということで放送できなくなるかもしれませんよ」
「さり気なく、恐いこと言いますね」
「それで、今日は中国の歴史を振り返ってみようかなと思っています」
「そのココロは?」
「「歴史は現代の鑑」だからです。中国の歴史を振り返る中で、今の中国を理解できることもあるでしょうし、あるいは日本と比較することによって新たな発見があるかもしれません」
「歴史と言っても範囲が広いですけど、いつ頃を想定していますか?」
「今の中国の原型がつくられたのが実は秦の時代です。その時代の法制度を見てみたいと思います」
「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「butszo.jp」提供です」
中国―—有史以来、ほぼ統一されていた
春秋戦国時代という戦乱の時代が約500年続くのですが、その戦国トーナメントに勝ち上がった国が秦でした。中国の最初の統一帝国となります(B.C.221)。そして、それから中国のほとんどの時代は、王朝の交代はあるものの、ほぼ統一された状態で推移します。世界の他の地域には見られない現象です。
なぜ、そのようなことが可能だったのか。要するに、秦の始皇帝の時代につくられた中央集権的な官僚制度をその後の王朝が引き継いだからです。秦の時代に原型がつくられ、その次の漢王朝の時に儒教をベースにしつつ、在郷勢力を引き込んだ統治体制を構築します。
後漢の時代に「白虎観会議」(A.D.79年)という統治について取りまとめられた重要な会議が開かれます。この会議で定められた目標が「大一統」、つまり統一を大(尊/とうと)ぶということです。今の中国が台湾に対して、しきりに一つの中国と言って牽制していますが、その原型が今から2千年前にかたちづくられていたのです。
(「ピクシブ百科事典-Pixiv」)
秦が中国本土を統一できた理由
なぜ秦が中国の最初の統一帝国になりえたのでしょうか。秦は一応、「戦国の七雄」の中に入っていますが、人口の少ない片田舎の新興国でした。それが周りの諸国を次々と滅ぼし、中国全土を統一してしまいます。
戦国トーナメントを勝ち上がることが出来た理由の第一は、良いものと判断したものを貪欲に採り入れたからです。統治の考え方は法家思想を採り入れますが、それを説いた韓非子は名前の通り、秦の隣国の韓の人間です。趙は軍服を従来のスカート式から機能的なズボン式に変えました。秦もそれを早速採り入れています。というように、良いと判断すれば、変にこだわらず、すぐに採り入れるという柔軟さがあったのです。現代の中国に引き継がれていると思います。日本の統治者の頭にこびりついているのは、前例主義です。そういった柔軟さは余りないと思います。
二つ目が氏族制の導入です。祖先が共通していれば、氏族であり仲間と考え、その中の一人を立てて氏族全員で盛り立てていくというものです。例えば、長男が王となれば、次男、三男を諸侯にし、他の者は卿や大夫といった役職で取り立てていくのです。そして、大事なことは氏族全員の会議によって決定するのです。日本は長子相続の発想が強く、次男、三男を排除することを考えると思います。
三つ目が競争原理の導入です。戦国時代なので戦いの連続だったと思います。武功を上げた者は、その功績に応じて爵位を挙げ、その際の身分は全く問いません。逆に何の働きもしなかった者に対しては、爵位を剥奪ということもあったのです。日本の場合は、失敗があったとしてもトップが交代せず、その代わりに隷下(れいか)の指揮官が責任を取らされることになります。部下が武功を挙げれば、トップが評価されることになります。官僚の世界や民間企業でも、競争原理より年功序列の力学の方が強く働いているのが現状だと思います。
(「Wikipedia」)
中央集権国家の政策が次の王朝に受け継がれる
「大一統」を維持する手段として3つの政策を掲げています。1つは、「井田(せいでん)」と言います。これは土地を一人ひとりの状況に応じて分け与えるという政策です。但し、この平等というのは、身分に応じた平等なので、形式的に一律に分配する訳ではありません。日本はこれをヒントに班田収授法を導入して、農民に口分田を分与しています。
2つ目が「封建」です。土地を封じて、支配者を建てるという意味です。地方の土地で対象となる地域を明らかにした上で、中央から役人を派遣します。その役人は、科挙という試験で選抜をしますが、身分が低くても受験できますし、役人になることイコール一族の繁栄につながるため、凄まじい競争率だったそうです。
3つ目が「学校」です。科挙のベースは儒学ですが、その標準的な考え方について教える場所として学校が位置付けられていたのです。明治時代に学校制度が整備されますが、中学、大学といった名称の出自は中国です。ちなみに、藩を廃して県を設置しますが、この「県」の出自も中国です。
「大一統」「封建」「学校」の3つが中央集権国家の中国にとって重要な政策だったのです。この考え方が宋、明、清の王朝に受け継がれていくことになります。
(「ラブすぽ」)
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