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政党が理想を語り始めた瞬間(とき)から転落が始まる ―― 個人と真逆のことが起きる / 共産主義の研究

 戦後60年代、70年代の左翼運動を総括する動き

今、にわかに戦後60年代、70年代の左翼運動を総括する動きがあります。池上彰氏、佐藤優氏の共著による『激動 日本左翼史』(講談社現代新書、2021年)が出版され、産経新聞では赤軍派の活動を批判的に紹介する記事が連載されていました。

『激動 日本左翼史』の帯に書かれた言葉は「左翼の掲げた理想は なぜ『過激化』するのか」というものです。一言で言えば、その理想が現実に足を付けたものではなかったからです例えて言えば、糸の切れた凧のようなもので、コントロールを失って地上に真っ逆さまに落ちていったということです。

 「連合赤軍」事件――理想社会を目指したのに何故「脱線」したのか

理想を掲げるのは、大事です。ただ、個人の場合と団体の場合を同じように考える訳にはいきません。分析的に考えてみることにします。

個人の場合は、例えば「世界一のプレィヤーになりたい」と理想であり目標を掲げた瞬間から、その方向に向かって具体的に行動することが出来ます。そして、多くの場合は、憧れの選手が必ずいるものです。つまり、具体的な目標像みたいなものが自分のイメージの中にインプットされる訳です。後は、その目標に向かって日々努力するということです。団体競技の場合は、難しさはありつつも、全体的に目標を共有できれば、時には個人よりもその努力が実を結ぶことが早いと思います。

政治の世界は、これと同じように考えるのは危険ですその実証を戦後の「左翼史」が語っています。象徴的なのが、「連合赤軍」内の集団リンチ殺人事件です。「総括」という名のリンチによって、自分たちの仲間12人を約2カ月の間に殺してしまいます。共産主義社会という理想の社会を目指して集った仲間なのに、どうしてこのような事件が起きたのか、理由は3つあります。

(「毎日新聞」)

 共産主義を掲げて政治活動をする場合の3つの問題点

1つは、目標が抽象的であったことです。そのため現実的に何をするのか、という点において、そこから意見が別れることになります。例えば、「日本共産党綱領」の第5章に「社会主義・共産主義の社会をめざして」という項目があります。その中で社会主義は共産主義社会の第一段階であり、ここにおいて一切の搾取がなくなり、階級による社会の分裂が終わり、「社会主義日本では能力に応じてはたらき、労働におうじてうけとる原則が実現され、これまでになく高い物質的繁栄と精神的開花、広い人民のための民主主義が保障される」(「日本共産党綱領」)と書かれていますが、このような社会は実現していませんので具体的イメージは個々人に任されることになります。任されてそこで終わりではなく、それを具体的な政策や戦略として考える必要が出て来ます。その場合、当然政党あるいは団体の成員の中において意見の対立が生じることになります。

2つ目は、そうして出てきた意見の対立を結局は「力」によってしかまとめることしかないということです。具体的で絶対的なモデル社会がない弱さです。スポーツであれば、例えば大谷翔平というモデルを手本にしてフォームがどうのこうのと議論できますが、一切そういうものがない中での議論となります。当然起きる意見の対立をどう解決していくのかということですが、お互いの頭の中のイメージを比べることは出来ませんので、結局は多数決か物理的な力を用いるしかありません。後者を使ったのが、連合赤軍で、前者を採用したのが日本共産党ということです。ただ、多数決を純粋に使うと、都合が悪いことになります。そこで採用されたのが、民主集中制という名の権力集中制です。中央委員会の決定を絶対として、党員はそれへの意見を言っても良いが、中央委員会の指示に従って行動すべしというものです。

3つ目は、具体的に動くために綱領を定める必要があります綱領が一つの指針になるのですが、指針が正しいかどうかは分かりません。具体的で絶対的なモデル社会がない悲しさです。そこが現実社会の中で活動する政党のあり方の難しさなのです。

(「アマゾン」)

 現実の社会の動向に素直に寄り添う姿勢が政党には必要

この現実社会はどのように動くかは、まさに神のみぞ知るの世界なので、政党は現実の対応と、そこから予想される10年後、あるいは20年後の未来を見据えて政策を考えれば良いのです。そうすれば、地に足がついた活動になるのですが、共産主義社会という雲をつかむような話を持ち出して、それを目指して活動する、一種の宗教団体のような活動になるでしょう。つまり、党首のカリスマ性が高まり、彼の言った一言が絶対的なものであると信じ、自分の活動が夢の社会への一歩であること思い込み、ひたすら活動を続けることになります。

本来は、正しきあり様(よう)というのは、ミクロとマクロの2つの視点によって立体的に明らかになることです。つまり、現実社会を見つつ、時代を先行する社会を見比べることによって自分たちの社会の立ち位置が分かります。明治維新期に日本からの欧米使節団が実際にヨーロッパ各地を視察しました。そのことによって、日本の立ち位置が分かったのです。共産主義者は悲しいかな、ミクロの視点しか持てません。マクロは自分の頭の中のイメージなのです。だから、論理的に考えた結論がその時点の社会において受け入れられるかどうかの判断が出来ないと思います

共産党の言動がどうしてもピントがずれて支持率が自分たちが思っている以上に伸びないというのは、そういった構造的な問題点があるからです。

(「時事エクイティ」)

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