
「保守とは何かということで、この間話をしてきましたが、今日で一旦区切りをつけたいと思っています」

「まだまだ言い足りないことがあるとは思いますが、他の社会問題にも触れたいですからね」

「今日は、「不平等条約」について話をしたいと思います。関税の問題は、現代にも通じる問題ですからね」

「赤沢経済再生担当大臣が何回もアメリカに飛んでいます。トランプ関税で振り回されている感じがします」

「あんなに頻繁に行く必要はありませんよ。情けない国だなと思っているでしょうね。中国は電話会談で関税を引き下げさせましたからね」

「関税の問題は、政治力がモノを言うということですね」

「おっしゃる通りで、歴史的に見ても、そうですね。常に関税は政治的に利用されてきました。日本が最初に通商条約を結んだ国がアメリカでしたが、好意的でした。日本は20%の関税をかけるのを認めています」

「そうなんですか? 「不平等条約」を結ばされたのではないのですね」

「藩閥政府によって偽りの情報が流されています。その辺りのことについて触れたいと思います。明治維新を肯定的に捉える保守の方が多いのですが、見極める必要があります」

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「ジャパクリップ」提供です」
「不平等条約」と関税の実態
多くの教科書では、「江戸幕府が安政期に結んだ通商条約は不平等条約であり、治外法権の容認と関税自主権の欠如がその主な内容である」と記述されています。しかし、この「関税自主権の欠如」とされる内容については、必ずしも実態と一致していません。
1858年に徳川幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、関税については両国の協議に基づいて決定する「協定関税方式」を採用しました。その協定で定められた関税率は20%であり、これは当時の国際水準と比較しても決して低い数字ではありません。たとえば、同時期の関税率はアメリカで40〜50%、ロシアで15〜20%、清で5%、インドで2.5%でした。
アメリカ | フランス | イギリス | ロシア | 日本 | 清 | インド |
40-50% | 12-15% | 0% | 15-20% | 20% | 5% | 2.5% |
当時、アメリカ政府の歳入の半分は関税によって賄われており、自国産業を保護するため高関税政策を取っていました。一方、イギリスは産業革命により自由貿易体制に移行し、関税を撤廃していました。清やインドなどの国々は、欧米列強との不平等条約によって低関税を強いられ、自国産業が育たず低開発の状態に置かれていました。これと比べれば、日本の20%という関税率は、自主性と現実的判断に基づいたものであったと言えます。
(「プログラメイク」)
通商条約締結の経緯とその成果
1854年の日米和親条約に続き、1856年にはアメリカ総領事ハリスが下田に着任し、日米通商交渉が本格化します。13回に及ぶ交渉を経て、1858年に14条からなる日米修好通商条約が締結されました。幕府はこの交渉にあたり、諸大名を3回にわたり集めて意見を聴取し、「通商やむなし」という意見でまとめます。
しかし、朝廷の許可を求めたものの孝明天皇は攘夷の立場から反対を表明しました。幕府は説得を試みますが、上手くいきませんでした。最終的に井伊直弼が止む無く朝廷の許可を得ないまま調印に踏み切ります。
とはいえ、調印された関税率20%は、徳川幕府自身が判断した結果であり、外国から一方的に押しつけられた訳ではありません。この数字は、当時の日本の経済状況を考慮すれば妥当なものであり、開港後の貿易も順調に拡大しました。1859年の開港初年度には生糸の輸出が100万ドルを超え、2年目には500万ドルに達します。生糸はその後、1941年まで80年以上にわたり日本の輸出の主力品目となり、経済成長の柱となりました。
(「レタスクラブ」)
関税自主権喪失の原因と歴史認識のねじれ
日本が関税自主権を喪失した直接の契機は、長州藩による下関海峡での攘夷事件でした。長州藩は1863年、外国艦船を砲撃し、これに対しイギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合艦隊が下関を攻撃します。長州藩は完敗し、藩内の攘夷派を弾圧、幕府に謝罪する事態となりました。
この戦闘後、イギリスが賠償金の代わりとして、日本の関税率を20%から5%へ引き下げるよう要求し、1866年にその通りに改定されました。これにより、日本は貿易赤字国に転落します。関税自主権の回復は1911年まで待たねばならず、その2年後には工業製品に30%の保護関税がかけられ、日本の工業化はようやく本格化しました。
関税自主権の喪失は、条約を締結した江戸幕府ではなく、攘夷戦争を引き起こした長州藩の軽率な行動によるものでした。しかし、明治政府を樹立した長州・薩摩の藩閥勢力は、こうした事実を覆い隠し、「江戸幕府の無能が不平等条約を結んだ」という物語を国民に植え付けました。これは、明治政府が自らの正当性を強調するために、歴史を都合よく改変した一例といえます。
(「NHK」)
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