
「たまには、帝国憲法の話をしましようか」

「何か問題意識があるのですか?」

「帝国憲法の制定に一番こだわった人の思いや考えを紐解かないで、今まで解釈論だけが先行していたと思っています」

「一番こだわった人というのは、誰ですか?」

「伊藤博文です。彼は内務卿(内務省のトップ)の時に権力闘争を仕掛けて、イギリス派と言われる人たちを放逐します(明治十四年の政変)」

「ただ、それだけでは憲法制定にこだわったとは言えないと思います」

「彼には、ある構想があり、それを実現させるためには、どうしてもプロシア憲法から学ぶ必要があったのです」

「その後、すぐにドイツに留学しますよね」

「よくご存じで……。1882年に憲法調査団長としてドイツ・オーストリアへ出発しています。滞在は1年6か月という長期に及ぶものでした」

「それだけ熱心に研究されたということでしょうか。帰国が翌年ですよね。憲法が制定されるまで6年位ありますよ」

「枢密院議長・憲法取調局総裁として帝国憲法制定に向けて指揮を執ります」

「なるほど、伊藤博文が一連の流れの中にいますね。ここからが本論です ↓表紙は「HugKum」提供です」
伊藤博文に影響を与えた出来事
映画鑑賞をする際に監督の思いや意図が必ず作品に反映しています。憲法を読み解く場合も同じです。憲法制定に向けてこだわり、執念すら感じさせるような行動軌跡がありながら、今まで、まったく顧みられてこなかったのが、伊藤博文の帝国憲法に掛ける思いです。
伊藤は長州藩の下級武士として倒幕運動に参加します。彼に大きな衝撃を与えたのは、薩長が官軍の地位を得るために「五箇条の御誓文」と天皇を利用したことです。当時は戊辰戦争の最中です。わずか15歳の天皇が諸国の大名が居並ぶ中で「五箇条の御誓文」を読み上げた瞬間に、その場にいた大名は官軍となってしまいます。戊辰戦争の流れが一気に薩長側に傾いてしまい、その1か月後に江戸城無血開城が実現します。幕府軍は雪崩を打ったように崩れていったのです。天皇の権威の凄さ。これを肌で感じたことが、伊藤の生涯にとって重要な経験だったのです。
その伊藤が本格的に権力中枢に食い込むのは、「明治六年政変」(1873)の時です。西郷隆盛や江藤新平が政権の中枢から追い出される事件です。この時、彼は参議として太政官の実務を担っており、征韓論をめぐる政府分裂の渦中で、大久保が仕掛けたシナリオをアシストする役割を担います。ここで伊藤は、政治を理念で動かすよりも、制度を掌握した者が政治を動かすという現実主義的信念を確立します。

(「日本の古本屋」)
権威を制度化し、同時に政治から隔離する構造を持つ帝国憲法
明治六年政変以後、伊藤は実務官僚として急速に頭角を現し、1878年の内務省設置以降は行政制度の中心に立ちます。ここで彼は、「天皇の権威」と「官僚制度」を組み合わせた政治構造――すなわち「権威による統制と官僚による運営」という統治モデルを完成させていきました。
彼の願望は、天皇の権威を利用して国をまとめながら天皇の力を抑えつつ、政府と官僚が自分たちの意思で自由に政治が行える態勢を作ることでした。そんなことが本当にできるのか。伊藤は疑心暗鬼になったこともありましたが、ドイツやオーストリアなどの欧州視察によってその展望が開けて来たのです。そこで彼はプロイセン憲法に見られる君主権を中心とした立憲制の形式的安定に強い関心を示します。立憲主義の理念ではなく、「権威を維持しながら政治を運営する制度的枠組み」を探していたのです。
その帰結が、1889年の大日本帝国憲法の制定です。天皇を統治権の総攬者としながら、政治的責任の外に置く――すなわち、権威を制度化し、同時に政治から隔離する構造でした。輔弼権と統帥権という2つの概念を使うことによって、天皇を現実の政治的な関与から遠ざけることを考えました。この憲法体制は、伊藤が倒幕・政変を通じて得た経験の総合的結晶だったのです。明治以降、敗戦まで歴代の天皇の政治的意志はことごとく無視されました。すべての戦争に反対だったのに、戦いの火ぶたは切られています。国際連盟脱退も反対でした。しかし、その意向が汲まれることはありませんでした。天皇の輔弼権、さらには統帥権の方が優先されるという倒錯した論理がまかり通っていたのです。

(「笹岡工業高校」)
立憲主義を装った無立憲主義
伊藤博文の政治思想は、理念の体系ではなく、体験の体系でした。倒幕で「権威の力」を学び、政変で「制度の力」を知り、憲法でそれを制度化したのです。帝国憲法は、天皇の権威を借りつつ、天皇には政治に口出しをさせず、なおかつ為政者の政治の自由を確保するための憲法でした。これは「19世紀のドイツ諸国の憲法を支配した君主主義と同じもの」です(宮沢俊儀『憲法』有斐閣、1986)。
本当の権力者が自由に思ったままの政治が出来るためにはどうすれば良いのか。それは、憲法に何も書かないことだと伊藤は思ったのです。書けば、様々な制約を受けるからです。書かないことが一番なのです。そんなことから、帝国憲法には内閣、内閣総理大臣、元老、枢密院の規定がありません。その反面、帝国議会は33条から54条まで、実に22条も使っています。憲法全体で76条しかありませんので、その分量の多さが分かると思います。どうでも良いと思っている機関については、多くの条文を用意したのです。
帝国憲法について、近代的立憲主義を採用したという評価をする人がいます。立憲主義というのは、権力機関に対するチェックであり、監視の意味です。ところが帝国憲法にはそもそも権力機関が登場しません。立憲主義を模倣しつつ、権力を制度の内部で自由に運用できる「立憲主義を装った無立憲主義」と言えるでしょう。

(「fortressghana.com」)
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