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“征韓論”は吉田松陰の遺志だった ―― 藩閥政権が抱いた使命感と暴走 / 古代の友好から近代の対立へ

  • 2025年6月5日
  • 歴史
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「韓国の大統領が決まりましたが、日本のマスコミ報道が抑え気味です」

女性

「何か理由でもあるのですか?」

「どのスタンスで報道して良いのか、決めかねている感じがします」

女性

「前の大統領とは、反対の立場なんですか?」

「前の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が罷免され、それを受けての大統領選挙でした。そういうこともあり、保守派は国民の支持固めをすることが出来なかったと思っています」

女性

「日韓関係がまたおかしくなってしまうという不安感からくる、控えめな報道ということですね」

「私には、そういう感じが見受けられます。ただ、北朝鮮が路線変更をしてしまったので、韓国は日本と向き合うしかないと思っていますし、日本も胸襟を開いて率直に話し合いをして欲しいと思います」

女性

「すぐに駆け付けた方が良いですか?」

「1月にトランプ大統領が誕生して、2月の上旬には日米首脳会談のために石破首相はアメリカに飛んでいます。隣国なのに口だけ「おめでとう」では、バランスが悪いと思っています。今は国会の会期中ですが、一区切りついたら、すぐにでも日韓会談をした方が良いでしょうね」

女性

「何事も会って話し合うことから始まりますからね」

「今までとは視点を変えて、日韓のすれ違いがどこから生じたのか、という問題について考えてみました」

女性

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「AuDee」提供です」

 古代から江戸期までの日朝関係とその断絶

古代の時代、日本と朝鮮は良好な関係を築き、建築や織物技術、仏教など多くの文化が朝鮮から日本に伝わりました。両国はウラル・アルタイ語族に属する民族同士として、長らく友好関係を保っていたのです。ウラル・アルタイ語族というのは、文の最後に動詞を使う語族のことです。

しかし、豊臣秀吉による朝鮮出兵により、朝鮮半島は大きな被害を受け、物理的な損害だけでなく精神的にも深い傷を負いました。その後、関係修復に取り組んだのが徳川家康であり、朝鮮通信使の来訪が始まります。通信使は江戸時代を通じて12回来日し、将軍の代替わりを祝うなど、文化的な交流を深めました。

ところが、19世紀初頭に使節団員の死亡事故や渡航の困難などが重なり、朝鮮通信使の派遣は中断されます。そして、幕末を経て明治時代に入ると、両国関係は突如として緊張をはらんだものとなります。1875年、藩閥政府によって江華島事件が引き起こされ、日本の軍艦「雲揚号」が挑発行為を行い、朝鮮と武力衝突に至りました。この事件を口実に、日本は朝鮮に開国を迫り、武力を背景に「日朝修好条規」を結びます。これは、形式上は条約であるものの、実質的には朝鮮に不利な不平等条約でした。

(「Wikipedia」)

 吉田松陰の対外戦略と「征韓論」の源流

吉田松陰は、一般には「松下村塾」で高杉晋作や伊藤博文など多くの志士を育てた教育者として知られています。特に地元・山口県では「松陰先生」と呼ばれ、敬愛の対象となっています。

しかし韓国では、彼は「朝鮮侵略論の提唱者」、つまり「征韓論の原型をつくった人物」として認識されています。実際、彼の著作『幽囚録』(1854年)では「朝鮮を攻めて人質を取り、貢を納めさせるべき」と書かれ、さらには満洲や台湾・ルソン島までの領有も示唆しています。

また、兄・杉梅太郎宛の書簡では「朝鮮・満洲・中国を切り従わせ、ロシアに失う分をそれで補う」と述べ、さらに久坂玄瑞宛の書簡では「蝦夷・琉球・朝鮮・満洲・中国・インドまで支配範囲を広げるべき」とまで記しています。これらは教育者というよりも、むしろ積極的な膨張主義思想の持主であったことを示しています。

(「Gooブログ」)

 松陰の危機感と、その後の明治政府への影響

松陰がこうした過激な対外論を唱えた背景には、当時の国際情勢への強い危機感がありました。1840年代のアヘン戦争で清が敗れ、香港を割譲。さらにイギリスがインド、フランスがベトナムを植民地化するなど、アジアが次々と欧米列強に侵略される姿を、彼は目の当たりにしました。ペリー艦隊の来航による日本の開国も、彼に強烈な危機意識を与えました。

こうした状況下で、彼は『古事記』の中の神功皇后の三韓征伐や豊臣秀吉の朝鮮出兵を「国家存立の手段」として高く評価しました。しかし実際には、当時の欧米列強が日本に対して植民地化を狙っていたという証拠は乏しく、イギリスのオールコック公使は「日本人は文明を有する優秀な民族」として敬意を払っています。欧米諸国はあくまでも貿易相手としての日本と関係を結んだのです。不平等条約の主張や対外拡張政策は、明治政府が国内支配を正当化するためのプロパガンダだった可能性が高いのです。

とりわけ長州出身者によって主導された明治政府は、松陰神社を建立し、松下村塾の地を聖地化します。松陰の思想が過大に神格化され、藩閥政府の対朝鮮政策において、その影響が色濃く反映されていくことになります

(「タイムズクラブ」)

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