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教育の地方分権こそ日本が生き残る道 ―― 制度疲労を起こしている文科省

女性

「アメリカ教育使節団の報告書が出て、戦後は地方分権教育にいったん舵を切るのですね。前回はそこまでの話でした」

「報告書という名前がついていますが、当時の日本は占領下ですから、日本は一種の命令書として受け止めていたと思います」

女性

「それで実際に公選制の教育委員会制度がスタートして、アメリカ型の地方分権型教育に向けて動き始めた訳ですよね。なぜ、それが止まってしまったのですか?」

「一言で言うと、理想と現実のギャップの中で、教育行政が揺れ動くのです。その結果、実は戦前よりも中央集権体制が進み、自由度は少なくなります」

女性

「そうなんですか! 理想と現実のギャップをもう少し具体的にお願いします」

「実は余り知られていないのですが、1946年に文部省によって「教育行政刷新要綱案」がまとめられます。それによると全国を9学区に分け、学区に学区庁を置き、その長官は社会教育も含めて学区内の教育全般について責任をもつという地方分権態勢が書かれていたのです」

女性

「じゃあ、それが軌道に乗れば、文部省の教育権限をそちらに移動しようということだったのですね」

「そうだったと思います。ところが、その文部省のプランと占領軍総司令部(以下「GHQ」)との話し合いがまとまりません。GHQはもっとラジカルな改革を求めたのです」

女性

「充分にラジカルだと思いますけど……」

「文部省の原案は、学区庁に権限を委譲し、教育委員会は教員による選挙と考えたのですが、GHQの感覚だと、それも一つの中央集権的なものと映ったのです」

女性

「GHQの求めたものは、あくまでもすべての住民の選挙による教育委員の選出だったのですね」

「資料を読むと、GHQがかなりこだわっていたことが分かります。1948年に教育委員会法が制定され、10月には第一回選挙が行われます」

女性

「結局、何回行ったのですか?」

「8年間で3回行われています。その後は、現在の任命制の教育委員会制度になります」

女性

「シナリオが狂ったということですね。その辺りの事情は、本論を読んでいただきたいと思います ↓」

 制度的な限界を露呈した文科省

今から考えると、1946(昭和21)年に文部省が出した「教育行政刷新要綱案」が最も現実的なプランだったと思いますし、現代でも十分通用するというか、現代においてこそ実施すべきプランと考えています。

今の文科省中心の中央集権的教育行政は、21世紀の現代教育に対応することは出来ません。それは、この間の失態を見れば明らかです。ゆとり教育、大学入試における記述式プラン、英語の点数化に於いて民間の試験を導入するというプラン等も含めて、極めて空想的なプランを連発しています。

このまま教育行政を任せても、さらに失態を重ねるだけです。野球で例えれば、降板しなければいけないのに、エースピッチャーだから、今までの実績があるからという理由だけで続投させているようなものです。殆ど、「火の玉ピッチャー」になっています。

何故、火の玉ピッチャーになっているのか2つ理由があります。1つは、制度的な疲労です。かつての不敗のエースといえども、体力の限界というのがあります。文科省という組織は、文部省の組織的遺物を受け継いでいますので、今年で150年になります。

2つ目は、自分本位の考えです。「俺の球は打たれるはずがない」と思っても、相手があります。絶対の「切り札ボール」がこの世界にはないのですから、相手の考えを読んだ上で投げないと打たれることになります。要するに、現場の実情を無視して、勝手に頭に描いた理想像に基づいて政策提言をしても通じないということです。言葉を換えれば、一面的な発想しか出来なくなっているということです。

(「草野球のサイト」)

 日本の国際社会復帰が思った以上に早かった

日本の国際社会復帰は1956(昭和31)年ですが、中国大陸や半島情勢の急速な変化のため、思った以上に早い復帰であったことは確かです。日本より早く降伏したドイツですが、東西ドイツが国連同時加盟したのは1973年だったことを併せて考えれば分かります。

そのことは、日本の社会にとっては嬉しいことだったのですが、もしかしたら教育のことだけを考えると、もう少し後でも良かったのではないかと思う時があります。歴史に「たら、れば」を持ち込んではいけないのですが、最近そう思うことがあります。

国際社会復帰した年の1956年に日本は「地教行法」を制定し、公選制教育委員会制度を廃し、任命制教育委員会制度を導入します。日本は主権を取り戻しましたので、法制度については自国の判断で行うことが出来るようになっていたのです。そこから、文部省を頂点とする中央集権的教育行政が再び戦後においてもスタートすることになります。

(当時の貴重なポスター/「玉川学園」提供)

 地方分権の胎動期を生かせず

1990年代に入ると、地方分権の動きが押し寄せることになります。最初は1993年6月に衆参両議院において「地方分権の推進に関する決議」が全会一致で可決されたところから始まります。何故、そのような動きになったのかであるが、バブル経済後の不況のため悪化した財政を再建するという課題が出てきたからです。簡単に言えば、地方でできることは地方で行うという方向性が決められることになり、1994年12月には「地方分権の推進に関する大綱方針」が閣議決定され、それが翌年1995年5月の「地方分権推進法」の成立に繋がることとなります

この「地方分権推進法」は4章17条から成るもので、条文の数から推測できるように内容は大綱的なものでした。法はその目的として「地方分権を総合的かつ計画的に推進すること」(第一条)(下線筆者)とした上で「国及び地方公共団体が分担すべき役割を明確に」することを求めたのです。そして、同法の規定により同年7月に地方分権推進委員会が設置され、結局5次にわたる勧告(1996~1998年)を政府に提出するのですが、委員会自体に教育の地方分権についての問題意識が希薄であったと思われます。いくつか、それらしき意見が出ているのですが、中央集権的な教育体制を前提にした上での提言ばかりでした。

問題意識がないところに妙案も立法もありません為政者の問題意識が希薄なことが、この日本の教育の現状を招き入れていると思っています。いじめや不登校の生徒、ハレンチ教員の数は、増え続けています。地に足がついた教育改革をするために、まず教育行政の主体である文科省の制度改革をする必要があります。そのためには、制度設計ができるような政治的力量をもった政治家の出現がまたれるところです。

(「内閣府ウエブサイト」)

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