「学校統廃合と言うと、その本質が隠されてしまうので、小学校廃校政策と敢えて言います」
「全体像が見えないと理解しにくいと思うのですが、共通認識を持つために、この30年位で全国で何校くらい廃校にしているのですか? 中学校の廃校については、どうお考えでしょうか?」
「文科省のデータ(小学校)によりますと、1989年度は24,608校ですが、2018年度になると19,591校になっています」
「ということは、約5,000校が廃校になったということですね」
「1年になおすと約170校、約2日で1校が廃校になっている計算です」
「そう言われると、凄まじいスピードで廃校にしていることが分かります。ちなみに、公立中学校も同じですか?」
「そちらは30年間で約1,000校を廃校にしています。1年間で33校、毎月3校ずつ廃校した計算です。ただ、私立中学という選択がありますので、小学校を基準にして考えたいと思います」
「ところで、それだけの数の廃校計画を文科省が行政指導したということでしょうか?」
「文科省は統廃合については地域の実情を勘案してということを言っていますので、率先して指導したということはありません。統廃合については、文科省は中立的な立場を取ってきたというのが実際のところです」
「逆に、自治体が単純に、ある学校を廃校にしたいと思えば、出来てしまうということですね」
「今の言い方には、多少引っ掛かりますが、出来てしまいますね。ただ、昨日のブログでも書きましたように、率先して廃校にした地域は廃れるということは言えるでしょうね」
「そこを敢えて行おうという自治体があるのですが、何をメリットとして考えているのですか?」
「教育関係予算の削減でしょう。それしかありません。一つに纏めてしまえば、教育に関わる経費が安くできます。教育費の削減を狙って、統廃合をするのです」
「廃校政策を進めれば、その地域の人口減は確実に進みます。にも関わらず、どうしてその政策を進めるのでしょうか?」
「いい質問ですね。これは縦割り行政の弊害だと思っています。つまり、教育委員会は教育予算をどう使うかということを専ら考える行政委員会です。彼らからすれば、人口減とか、地域の衰退というのは、考える必要のないこと、考えてはいけないことなのです」
「考えてはいけない、というのはどういうことですか?」
「簡単に言えば、自分たちの領域外のことなので、考えても殆ど無駄だと思っているからです。つまり、学校統廃合は教育委員会の予算を切り詰めなければいけないという事情の中で立案されるものです。それに対して首長や議会がきちんとした理念に基づいて、それを止めることが出来なければ、廃校政策はそのまま進められます」
「ここからが本論です ↓」
戦後の異常なまでの廃校措置は、教育委員会に教育に関するすべての権限を付与したために起きた
教育委員会は割り当てられた教育予算をオーバーすることなく計画を立てるように首長から言われますので、教育行政がどうしても予算本位の発想に傾いてしまう傾向があります。学校存続の請願が出されても、存続をすれば教育経費が掛かってしまう、無理な要求という判断がそこで下されることが多くなります。そして、教育委員会は民選の組織ではありませんので、署名や請願が出されても怖くはないのです。
教育委員会を置いている以上、そこでの決定は自治体として尊重する必要があります。相当に無理な計画でない限り、首長も議会も首肯せざるを得ません。そして自治体としての方針が定まってしまうと、文科省であっても自治体が独自に判断したことなので干渉は出来ないとなります。かくして、「学校廃校」はブレーキが利かない列車のように現在なお進行しているところです。
本来、子供たちの教育を受ける権利の内実を豊かにするために設けられた機関が、予算削減のために「学校廃校」の側に回る。どうして、こうなってしまうのか。教育委員会に教育予算を立てさせるからです。財政問題については、教育委員会にタッチさせなければ良いのです。例えば、私立学校は理事会は予算関係、教員は教育関係というように仕事の分担をしています。教育内容も予算もすべて教員が行うとなると、予算を考えて教育活動を縮小する動きも出てきてしまいます。お金関係と教育活動、分けることにより時には両者の対立が生まれることがありますが、生徒にとってはプラスのことが多いのです。
昨日のブログで手本は沖縄県と書きましたが、例えば石垣市は学校統廃合が1900年代の後半に話題になった時、教育委員会が主催した話し合いを地区ごとに2回ずつ行い、徹底的に住民の声に寄り添おうとしたのです。そういったことの経験が、結局地域の結束力を高め、その後石垣市は人口増に向かうことになりますが、教育委員会を純粋に子供たちの教育のことだけ考えるような組織にすることが大切です。
これ以上の廃校措置は必要ない
令和の時代となりコロナ禍の中、学校教育の在り方そのものが変わる可能性があります。コロナが急速に終息すると考えるのは、甘い考えだと思います。専門家に言わせると、少なくとも2~3年はこういう状況が続くのではないかと言っています。インフルエンザと人類は約100年闘っています。人類の防疫力が進んだとは言え、10年、20年というスパンを考える必要があるかもしれません。そして、確実に言えることは「密を避ける」のが、これからの合言葉となるでしょう。であるならば、統廃合は時代に逆行した措置と言えるでしょう。
そしてICT教育を進めるのであれば、わざわざ多くの子供たちを一つにまとめる必要がありません。経費削減というのであれば、その時間、2つあるいは3つの教室をネットワークで結べば良いだけです。後は、その時間を法的にどのように扱うかという問題だけです。現在、オンライン授業は正規の授業として国は認めていません。ただ、これからの時代の流れを考えれば、そんなことを言っている場合ではないと思います。様々なことを踏まえて、早急にルール化する必要があるのです。
(「毎日新聞」)
統合によるデメリット
- 通学距離が長くなるので、子供たちの肉体的な負担と交通事故の危険性が増す
- 学区と学区の統合になるので、子供たちの中に集団意識が残り、上手く融合しないことが多く、いじめや不登校が増える
- 教員一人当たりの児童数が増え、きめ細かい指導が受けられない場面が増える
通学距離についてですが、現在の規準は2kmというものです。この範囲内であれば徒歩通学は可能という前提で統廃合を行っていますが、この2kmという数字は今から60年位前に決めた数字です。つまり、車の往来が余りない時代、マイカーが珍しい時代の数字です。そして簡単に2kmと言いますが、これはバス停で5駅分、鉄道の1駅分なので実際に歩いてみると大人でも嫌になるくらいの距離です。普通の親であれば、小学生のわが子にランドセルを背負わせて1日1往復させるのは酷だと判断し、引っ越しを考えるでしょう。せいぜい、1.2 kmが限界だと思います。そして、今は昔と違って、わざわざ子供を狙う輩もいるというご時世です。
(「ここココ・ビットパーク」)
統廃合を推進する側が論拠として持ち出す理屈は、集団が大きくなれば「集団の中で、多様な考えに触れ、認め合い、協力し合い、切磋琢磨(せっさたくま)できる」というものですが、これはあくまでも一般論であって、統合する合理的な理由にはなりません。集団というのは、与えられた課題に応じて教える側が用意すれば良いからです。例えば、本当に高度に難しい問題であれば、一人の小学生を高校生の研究グループの中に入れても良いですし、運動会の時は異年齢集団を作って、そこで仕事を割り当てれば良いのです。学級と学年だけが集団の母体ではありません。重要なのは、子供たちの発達状況に応じて、どのような集団を組めば良いかを判断できる力をもった教員集団の養成です。単純に子供たちを多く集めれば、勝手に子供たちが成長する訳ではありません。
「近年では思考力や判断力、問題解決能力の育成が求められており、一定の規模を確保することがますます不可欠になっている」と言いますが、これも屁理屈です。この理屈が成り立つならば、大規模校ほど学力テストの点数が高いことになります。そんなデータはどこにもありません。むしろ、逆の傾向を示しているのではないかと思います。いい加減な論理に騙されないようにして下さい。
教育経費削減だけが理由のくせに、それに取って付けたように尤もらしいことを言っていますが、どれも教育学的に有効な論理ではありません。各自治体は教育委員会まかせで教育行政を行うのではなく、首長が問題意識をもって議会を上手く活用しつつ、住民とのコミュニケーションを図って欲しいと思っています。その対話が上手くいかない場合は、住民は学校廃校措置に対して差し止め訴訟で対抗することもありだと思います。
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