「昨日(8/23)の『産経』の3面トップは埼玉県の県立高校の共学問題でしたね」
「共学を推進するというのが県教育委員会の見解ですが、実施予定については言及がなかったとのこと」
「共学を推進すると言いながら、別学支持者に対しても配慮をするという、玉虫色の見解ですね」
「日本人が最も得意としている手法です」
「子供たちのアンケートでも拮抗しているそうですね」
「共学が良い、別学が良い、両者とも20%程度です。多くはどちらでも良いですね」
「そうなると、今までの伝統があるので、わざわざそれを無くす必要もないという意見になりますよね」
「ただ、気になるのは、今回の共学論争で教育学的な観点からの検討が何もなされていないことです」
「男女共同参画社会だからとか、男女平等社会だからという観点からの主張が目立ちます」
「それは共学側の理由ですよね。別学賛成派は校風や伝統が理由です」
「それでは、お互い言いっ放しになるでしょうね」
「そんなこともあり、中に入った教育委員会が玉虫色の決着を図ったということだと思います」
「ここからが本論です ↓」
共学の問題は、男女の能力の伸長を考慮して論ずべき
中学や高校になると、体育の授業は通常、男女別となります。スポーツ競技・大会も男女に分かれての種目設定になっています。それは何故か。身体構造が根本的に違うからです。
近年の脳科学の発達で分かってきたことは、男女で頭の中の構造が違うことです。考えてみれば、当たり前の話かもしれません。身体の構造が違うのだから、その司令塔である頭の構造が同じであるはずがありません。違って当然なのです。
男女参画共同社会という理屈で男女共学を説くのは、基本的に間違っています。男女参画共同社会というのは、企業や工場といった生産現場、あるいは役所や事業所といったサービスを提供する現場を想定した言葉です。学校という場は、男女が共同して何かを生みだすところではなく、一人ひとりの能力を発見し、それを伸ばすところです。学校における男女共学の問題は、各自の能力の伸長にとってプラスかマイナスなのかという観点から判断されるべきなのです。
(「You Tube」)
男女の脳―—発達する部位の順序が違う
「女の子と男の子では、脳の異なる部位が異なる順序で発達する」(レナード・サックス『男の子の脳、女の子の脳』草思社、2006)―—小中高の成長期は、発達の順次性が異なるため、それを踏まえてのカリキュラムが求められます。
例えば、言語能力や手先を細かく使う能力は女の子の方が男の子よりも6年早く発達するそうです。だから実際に小学校低学年から中学年の男の子と女の子を比較するとよく分かります。話す内容や話し方、文章を書くのは総じて女の子の方が上手です。だから、出来るならば、話したり書いたりする授業の時は、男女別学の方が良いのです。
この発達の違いは、子供を産み育てるという女性だけが有している役割を充分に発揮するために備わった能力だと思います。
(「www.amazon.co.jp」)
男女別学によって女子の理系選択者は増える
言語能力は女子が一般的に男子より優れていますが、空間認知能力は男子の方が総じて優れています。これは身体能力が高い男子には、獲物を取るために与えられた能力だと思われます。
空間認知能力が弱いため、目的地に行く時に女子は目印となる建物をたよりに行くことを考えますが、男子は方角と距離で行こうと考えます。数学の問題を解く時に、女子は数式を具体的なものに置き換えて考えようとします。男子は数式のまま考えて答えようとします。男子は数学の問題を解く時に海馬を使いますが、女子は大脳皮質を使うことが分かっています。その違いなのです。
理系女子が少ないということが問題になっていますが、増やすためには理数系については別学で教えるという措置を取るべきなのです。問題への取り組み方が男女で違うからです。「ジェンダーを問わない教育は、かえってジェンダーの固定観念を強め、物理やコンピューター科学、三角法、微積分などのクラスを取る女の子が減るという結果を生んでいる」(前掲書)。
「男女7歳にして席を同じうせず」―—論語の中の文章です。孔子はもしかしたら男女の認識のメカニズムの違いを見抜いていたかもしれません。何でもかんでも一緒にすれば良いというものではありません。トイレや公衆浴場が男女別なように、TPOに合わせて判断するということでしょう。
(「note」)
読んでいただきありがとうございました。
よろしければ「ブログ村」のクリックをお願いします。
↓