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渋沢栄一、お札の「顔」になる ―— パリ万博への視察が転機となる / 議員活動にはまったく関心を持たず

「今年の7月からお札の「顔」が変わります。知っていましたか?」

女性

「20年ぶりみたいですね。1万円札が渋沢栄一に、5千円札が津田塾の創設者の津田梅子、千円札が誰でしたっけ‥‥」

「近代医学の父と言われる北里柴三郎です。3人は、ほぼ同時期に生きて活躍した方たちです」

女性

「渋沢栄一の大河ドラマの「青天を衝け」を見ていたので、親しみを感じますが、そうでなければ分からない人だったと思います」

「確かあの時、吉沢亮が演じるから見ているというようなことを言ってましたよね」

女性

「そうでなければ、見なかったかもしれませんね。だけど、あのドラマで渋沢の名前を知った人が多かったと思います」

「ただ、聖徳太子、福沢諭吉ほどには知られていないかもしれませんね。大河ドラマが放映された2021年はコロナ騒ぎの頃でしたので、充分な経済効果が得られなかったそうです」

女性

「日本の資本主義の父というのが触れ込みですが、日本の近代産業発展に貢献した人なんですね」

「銀行や鉄道、ガスなど近代日本の発展を支える仕組みづくりに携わっています。日本銀行、JR、新日本製鉄、東京ガス、帝国ホテル、三菱UFJ銀行といった組織の設立や運営に関わっています」

女性

「生誕地は盛り上がっているでしょうね」

「彼の生まれは埼玉県深谷市です。養蚕農家に生まれ、そこから商才を発揮しつつ、社会で活躍します」

女性

「激動の時代ですよね」

「幕末から、明治、大正、昭和と生き抜いています」

女性

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「読売新聞オンライン」提供です」

 パリ万博への視察が転機となる

渋沢栄一はどこで俯瞰力を身に付けたのだろうか。そんな問題意識を持ちながら、彼の経歴を調べると、パリ万博に幕府使節団一行として参加している事実に突き当たりました。栄一は27歳でした。1867年1月に横浜を出航し、上海、香港、サイゴン(現ホーチミン)、シンガポールに立ち寄りながら、スエズ、アレキサンドリアを経由して地中海に入り、マルセイユから北上してパリに入ります。

もともと彼は尊王攘夷を唱え、23歳の時には、横浜外国人居留地焼き打ち計画まで立てます。居留地に火を放ち、外国人を一人残らず斬り殺し、大混乱を引き起こす中で討幕を達成するという無謀なものでした。その計画は実行寸前までいくのですが、結局中止となり、そこから彼の人生が意外な方向に流れます。ひょんなことから慶喜と知り合い、幕臣となってしまいます。

パリ万博は栄一の実業家としての才能に、火を点けたものになったと思われます。上下水道、ガス灯、病院、銀行、工場といった設備に驚愕すると同時に、政府や自治体が税金という資金を活用してインフラを整備することや、資金を広く集めて事業を起こす方法も学んでいます。

(「東京ガス」)

 ヒゲがないことの意味

明治の政府の要人の多くが、ヒゲを伸ばしています。伸ばすか伸ばさないか、その人の好みというより、西洋的な価値観を受け入れようと考えた人がヒゲを伸ばす傾向があったと見ています。ヒゲは文明開化と共に日本に流行るからです。特に、政治家、上級公務員、学者、医師、教師といった当時威厳を持つ職業に就いた人たちの間で流行ります。明治天皇もヒゲを愛好します。

西郷隆盛、木戸孝允(桂小五郎)、そして渋沢栄一にはヒゲがありません。日本人的な生き方にこだわりたいという意志の表われだったと思っています。栄一のバックボーンは儒学です。彼は父の勧めもあって、5歳から漢文の素読を学び、『大学』、『中庸』、『論語』を1年位で読破しています。

彼は晩年になって『論語と算盤(そろばん)』という本を上梓しています。彼は国を豊かにするためには、社会に有意義な事業を起こすこと、そうすれば民は豊かになると考えたのです。経済と儒教の教えは矛盾しないという考えを持っていました。

(「note」)

 議員活動にはまったく関心を持たず

1890年に帝国議会が開設されます。渋沢栄一は貴族院議員の推薦をされたものの、最初のうちは固辞します。伊藤博文をはじめ周りから強く勧められ、議会に出席しないという条件を付けて承諾をした上での貴族院議員だったのです。しかし、彼は貴族院議員になったものの、1回も議会に出席することなく翌年の1891年に辞職してしまいます。

国家の繁栄は政治ではなく、日々答えを出し続ける経済こそ自分が力を注ぐ道と考えていたようです。確かに、議会は合議制なので、一人の意見が仮に正論だとしても全体の意見に反映するとは限りません。多大な時間と労力を使って法制度をつくったからといって、それが社会のためにプラスになるとは限りません。そういう「まだるっこしい/間怠っこしい」のがイヤだったのでしょう。

ただ、彼のような俯瞰力のある人間が、議会の議員でいることに意義があったと思います。特に、明治の終わりから昭和にかけて日本はあらぬ方向に舵を切ってしまいました。彼が政治に対して「保険」的な意味で目を向けていたならば、もしかしたら惨めな敗戦がなかったのではないかと思っています。買いかぶり過ぎでしょうか?

(「Wikipedia」)

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