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神武天皇は架空の人物 ―― 「欠史8代」―巧妙な歴史的仕掛け / 戦前は『古事記』の内容はすべて真実と教えた

  • 2025年2月13日
  • 歴史
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女性

「このブログは週3回発信していますが、祝日と重なった場合は、お休みさせていただいています。ということで、2/11の建国記念日はブログをお休み致しました」

「建国記念日ではなく、建国記念の日ですよ」

女性

「えっ、どう違うのですか?」

「元々は紀元節だったのですが、戦後GHQによってそれが認められず、昭和26年から「建国記念日」の設置を求める法案が9回の提出と廃案を繰り返して、結局成立しなかったのです」

女性

「それで、「の」を入れたら通ったのですか?」

「結果的には、そうなりました。成立したのが昭和41年です」

女性

「15年もかかったのですね。なぜ「建国記念日」ではダメなんですか?」

「2月11日に建国されたということを客観的に証明するものがないからということで、当時の社会党の国会議員さんたちが反対したのです」

女性

「「の」を入れれば、客観性は必要ないということですか?」

「いつ建国されたかは分からないが、どこかで建国されたことは確か。そのお祝いをどこでやっても良いが、今までの流れもあるので、2月11日にしましょうということです」

女性

「祝日にするために、そういうご苦労があったのですね。ただ、国民の反応は、冷ややかです。国旗を掲げている家を見ませんからね」

「本来は、政府が主催行事を計画すべきだと思いますけどね。ただ、今の政府は、どのような国を先人たちがつくろうとしたのか、理解していない人が大半だと思います」

女性

「そこが一番問題なのかもしれませんね。ここからが本論です ↓ 表紙は「Amazon公式サイト」提供です」

 神武天皇は架空の人物

神武天皇実在説をにわかに唱え始める動きがあります。『古事記』では、初代天皇とされていますが、彼は実在の天皇ではありません。そもそも『古事記』はフィクションと史実を織り交ぜながら、日本のアイデンティティ(基軸)を明らかにするという目的のために編纂された書物です。天皇の記述の部分に関して言うならば、初代の神武から9代の開化天皇までが架空の天皇です。2代から9代までを、歴史学では「欠史八代」と呼んでいます。

フィクションと分かるような仕掛けは、『古事記』の中に随所に散りばめられています。天孫降臨そのものがフィクションです。ニニギノミコトが5柱の神を従えて天から下りて来ますが、カムヤマトノミコト(後の神武天皇/以下「カムヤマト」)はそのひ孫にあたります。

そのカムヤマトが長男のイツセノミコトと一緒に旅立ちます。これを神武東征と言っています。「東征」という言葉を使っていますが、畿内に入るまで16年間かかっています。兄との二人旅と言った方がイメージとして正しいと思います。戦いは畿内に入ってから起きます。様々な困難がありつつも、地方豪族の助けを借りて、八咫烏(やたがらす)の導きを受けて、最後に橿原(かしはら)の宮で神武天皇として即位します。神や地方豪族の祖神との縁結びをするために作られた物語です。フィクションであることを示す為に神武天皇の享年を137歳としています。

(「jinjabook」)

 「欠史8代」――巧妙な歴史的仕掛け

『古事記』や『日本書紀』が編纂された時代、豪族たちは自らの権威を示すために、家系図をできるだけ古く長くすることに力を入れていました。これは、家柄の正当性を主張し、政治的な地位を確保するための手段だったのです。しかし、もし豪族たちの家系図が天皇家よりも長くなってしまえば、天皇家の権威が相対的に低下する可能性がありました。

そこで『古事記』では、神武天皇の直系に「欠史8代」と呼ばれる8人の天皇を設けました。この8代の天皇は、名前こそ記されているものの、実際には何をしたのか具体的な記述がほとんどありません。まさに「記録の欠けた天皇たち」なのです。この「欠史8代」は天皇家の家系を守るために意図的に作られたものです。つまり、神武天皇の直系を曖昧にしつつ、豪族たちが家系図を天皇につなげやすくするための仕掛けだったのです。そして、架空の天皇であるという意味で、享年をあり得ないような年齢にしたのです。第6代を123歳、第7代を106歳というように。

豪族たちは、できるだけ長い歴史を持つ家柄を主張したいと考えていましたが、初代・神武天皇に直接つながる形で家系図を作ることは許されませんでした。もしそのようなことが認められれば、天皇家と対等、あるいはそれ以上の権威を持つ豪族が現れる可能性があり、皇統争いに発展する危険があったからです。しかし、「欠史8代」は記録が乏しい架空の天皇たちであり、豪族たちが自らの家系を彼らにつなげることは大歓迎されました。この仕組みによって、豪族たちは「自分たちは皇統につながる名家である」と主張できるようになり、天皇家との関係を強めることができたのです。この結果、天皇家は多くの豪族から支持を得られるようになり、統治の安定につながったと考えられます。つまり、「欠史8代」は天皇家の権威を守りつつ、豪族たちの家系図とも調和させるための巧妙な歴史的仕掛けだったのです。

(「あなにやし~神話と神様と神社のこと~」)

 戦前は『古事記』の内容はすべて真実と教えた

戦前の日本では、『古事記』や『日本書紀』の記述を絶対的な歴史的事実として扱い、学校教育でもそれが強調されていました。これは、国民の天皇への忠誠心を強化し、日本の歴史を神話的なものとして神聖視させるための政策の一環でした。このような歴史観は「皇国史観」と呼ばれ、戦前の日本において広く浸透していました。

皇国史観は、日本が神によって創られた特別な国であり、天皇はその神の子孫であるとする考え方です。この考え方に基づいて、神武天皇の物語が日本の起源として絶対視されていたのです。そして『古事記』そのものを研究・発表することも許されませんでした。

実際に、歴史学者である津田左右吉は、『古事記及び日本書紀の研究』(戦後に復刻版が出版された)など4冊が発禁処分となり、出版元の岩波茂雄と共に東京地方検事局の取り調べを受け、皇室の尊厳を冒瀆したとして出版法違反に問われたのです。津田左右吉は文部省の要求で早稲田大学教授を辞職させられ、出版者の岩波茂雄は出版法違反で起訴されて1942 年5月に有罪となっています。

(「www.amazon.co.jp」)

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