「前回は、健康問題ということで、目のことを話題にしましたよね」
「子供たちの近視が増えているということですね。あれから家に帰って、子供たちに黒板の字は見えているのと聞いちゃいました」
「その日の『日経』(1/31)の夕刊に、大学の女性講師で、幼児期の子供のゲーム遊びを推奨するような意見が掲載されたので、驚いてしまいました」
「講師だから、まだ若いのでしょ。最近、子供のおもりをスマホにさせる親が増えていますよね。大丈夫かなと思って見ていますけど……」
「こういう状況であれば、ある意味驚くに値しないのかもしれませんが、教育に関わることで何かを発信する場合は、複眼的な視点を持って欲しいと思います」
「ただ、どういう理由で奨励しているのですか」
「積極的な奨励ではなく、「友達関係を広げる味方」になって良いのではというスタンスですね」
「相手もそのゲームをしていなくてはいけないですね。ゲームの数はもの凄い数ありますけど……」
「だから、言っていることが空想的、かつ理想的です。こう言っています。「理想はゲームが子供にとって気分転換や息抜きのためにうまく付き合える趣味の一つになること」と」
「幼児や小さい子供を相手にしたことがないのではないかと思います。子供を育ててみれば、そういうふうに上手くはいかないと思うようになります」
「子供には、気分転換や息抜きといった言葉は似合わないですからね」
「確かに、大人目線の言葉ですね。ここからが本論です ↓ 表紙提供は「ママリ」です
子どもを発見しよう
子どもの発見がフランスのルソー(1712-78)によってなされました。「人は子どもというものを知らない。子どもについてまちがった観念をもっている」と言います。子どもは小さな大人ではない、彼らには彼らの文化があると言ったのです。それにも関わらず、子供を小さな大人に見立てて、相も変わらず、大人文化を子供に押し付けようとしています。
子供が自分たちの世界を満喫することの重要性をルソーは説きました。「創造主の手から出る時には、すべてが善いものであるが、人間の手にかかるとそれらがみな例外なく悪いものになってゆく」(『エミール』)――有名な最初の出だしの部分です。
エミールというのは、空想上の子供の名前です。幼いエミールが誕生して成長します。ルソーは、このエミールに理想的な教育を施すのです。そして、エミールも年を重ね、結婚して息子が生まれ、その子を連れて家族でルソーの所に訪ねて来るところまでが描かれています。教育小説のような形をとった教育書です。そして、実はこの書が刺激となって世界から教育書が出版されるようになります。ある意味、先駆的な書なのです。
(「You Tube」)
子供には、子供なりの「課題」がある
子供時代には、子供なりの「課題」をもっています。それをきちんとこなすことによって、次のステップに行くことが出来ます。子供らしい子供に育てることが大事なのです。背伸びをさせないようにします。
遊びが彼らの本業ですが、子供たちには、なるべく素材のまま与えます。出来合いのおもちゃやゲームは避けます。砂、ドロ、水、粘土、葉っぱなどです。砂場は最高の遊び場です。そこでいかに創造力を発揮して遊べるか。遊びが途切れたら、何か素材を見つけて上げます。木の枝や小石で新たに展開できたら褒めてあげます。
多分、人類はこの地上に生まれ落ち、周りにあるものに興味をもちながら、手あたり次第にいろいろ試したと思います。そのうち、名前が付いて、性質が分かるようになります。役に立つのか、立たないのかを含めて、いろんな人による試行錯誤が行われたことでしょう。実は、子供たちも、それと同じ立場に立って自分の手足を使って遊びながら感触と感覚を味わっているのです。そして、実はこのことが極めて重要な行為なのです。ここで出来合いのゲームを与えてしまって、それで遊ぶことを覚えてしまったら、折角の創造力と冒険心がそこで途絶えてしまいます。
遊びは自分で工夫するしかないと思っていたところに、親が面白いものを与えてくれた。親がドラえもんになった瞬間です。何か困ったら親を頼れば良いという観念を擦りこむことになります。依存心だけが高くなり、何かを想像しようとする気持ちが後退していきます。
(「illust-box.jp」)
虐待は虐待を生む―― 子供「目線」に立ち返ること
心理学者のジュディス・リッチ・ハリスが書いた『子育ての大誤解』(早川書房/2000年)という本があります。その中の「子供の文化」という項目の中で「子どもの目標は立派な大人になることではない。子どもが目標としているのは立派な子どもになることなのだ」(同、248ページ)と言っています。だから当然「子ども時代は学び合う時期ではあるが、子どもたちを空の花瓶のように、彼らの生活にかかわりのある大人たちが意のままに注ぎこもうとするものをただ黙って受け入れるだけの存在としてとらえるのは間違いだ」(同、249ページ)
虐待が増えています。昨年度の数が今日発表されました。11万5730件です。凄い数だと思います。根本の原因は、親が子供の論理を認めないからです。そして、特に母親の中には、自分のキャリアアップの阻害物という感覚で捉えてしまう人が増えているのではないかと思っています。家内という言葉が死語になりつつあります。女性活躍と言われ、外に向かうことが是とされる時代となりました。子供は、その行く手を遮る存在物として写ってしまうということなのかもしれません。
そういう意識の中で子供が思い通りの行動をしない。つい、体罰、さらには虐待に発展するということだと思います。体罰について2年にわたる実証的研究をしたそうです。その結果「体罰を受ける頻度が高かった子どもは、より難しく、より攻撃的になった」そうです。「反社会的行動をやめさせようと親が体罰を施せば、結局そのもくろみとは正反対の結果を見ることになりかねない」(同、386ページ)と警告的に言います。
何事も順次性と接し方が大事だということです。
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