「戦後の日本の民主化政策については、GHQが大きく関わったことは知っていますよね」
「憲法制定から始まって、教育基本法の制定、労働関係法規の制定など、これらは占領下で行われています」
「それらは戦後の民主化政策として説明されていますが、GHQの敷いた「表」の政策だったのです」
「何ですか? 「表」の政策って? 「表」があるということは、「裏」があるということですか?」
「そう、あります。そして、実は裏の政策の目的はただ一つです。人口のコントロールです」
「そうですね。昨日のブログで書いたように、人口が増えると、戦争や革命が起きやすくなるので、とにかく増えないように政策誘導しようとします」
「日本が真の平和国家として歩むために、その道筋をつけるためです」
「素朴な疑問ですが、「表」の政策は、真の平和国家、民主国家として歩むためのものだったと思います。どうして、人口のコントロールが必要なのかが、よく分かりません」
「簡単に言えば、表と裏が表裏一体となって、はじめて効果が発揮できるとアメリカは考えていたようです」
「表」の政策だけでは、日本は平和国家として歩まない可能性があるとアメリカは見ていたのですね「」
「簡単に言えば、そういうことです。日本人は性格的に素直ですし、切り替えが早い民族ですし、水に流す文化をもっています。終わったことを言っても仕方がないという考え方が強く、恨みを晴らそうと考えないのですが、アメリカは疑いの目で見ていたのだと思います」
目次
「現在に至る日本の少子化は『政策』として引き起こされた人災」(河合雅司)
ここで彼が言っている「政策」というのは、産児制限のことです。「これを合法化し、国策として日本中に普及、浸透させたのだ。人工妊娠中絶や避妊によって人為的に人間の生殖を管理するのだから、これほど直接的な出生数の削減手段はない」
そして、その効果があったことの「証拠」として、欧米のベビーブームが10年以上続いたのに、日本のそれは3年で終わったことと、出生数の短期間で急激に落ち込んでいることをあげています。実際に、ベビーブームの1949(昭和24)年の出生数が約270万人ですが、1957(昭和32)年には約157万人となります。
< 「多産多死」から「少産少死」の社会へのプログラムを実行
GHQの中の公衆衛生福祉局長のサムス氏という人物が、人口学の知識を駆使して日本の人口を安定化させる施策についてリードすることになります。
医療・公衆衛生環境の向上と工業化、それにプラスして産児制限の知識の普及、この3点セットによって人口増加は止まるだろうというのが、サムス氏の判断だったのです。日本の工業化については、異論があったようです。工業化を許すということは、隠れて軍需工業が復活するかもしれないからです。
しかし、日本の工業化を復活させないと人口は安定しないという判断のもと、極東委員会は1947(昭和22)年に日本の再工業化を認めます。その後タイミングよく、朝鮮戦争による特需があり、日本の経済は復興するのです。
ただ、人口増加を抑えるためには、産児制限が最も有効であるというのがサムス氏の判断だったため、それを追究する動きが出てきます。
日本の中から協力者を見つけ出します。戦前も戦中に軍部の弾圧を受け、戦後に衆議院議員として活躍した加藤シズエ氏ですーー「衆議院議員となった加藤は、GHQの期待に見事に応えた。太田(日本社会党の太田典礼衆議院議員)と二人で産児制限の合法化を目指し」 (河合雅司『日本の少子化 百年の迷走』新潮選書)たのです。
リンク
優生保護法が制定される
加藤シズエ氏が中心となって「優生保護法」の内容をまとめて、議員立法として提出します。1947年10月のことです。この立法提案の意義は、堕胎を罪ではないとしたこと、母体保護を名目に人工妊娠中絶の条件を緩和したことです。
当時の国会での答弁書を見ると、単に母体保護だけではなく、人口抑制ということを考えた上での提案だったということが良く分かります――「この優生保護法案は、日本の将来の人口に対しての一種の計画性を与える文化国家の建前を、日本に備える一つの方法ともなると信じておるものでございます」(「衆議院厚生委員会」1947.12.1)
谷口豊三郎参議院議員は本会議で「今後の人口対策といたしましては、或る程度のいわゆる不良な分子とか、経済的に無能力な者とかいうような……約600万人ぐらいの人口になるのでございます。その600万人の方々に受胎調節をいたしますというと、1年に約80万人ぐらいの出生を低下することができるのであります」(1948.11.15)と発言しています。人権感覚が全くないと言われても仕方がないような発言内容です。当時のマスコミは何も反応しなかったのでしょうか。とにもかくにも、優生保護法は成立をする運びとなります。
改正優生保護法が成立する
その優生保護法は、成立してから3年後の1952年に改正されることになります。改正によって、経済的理由といった条件が事実上撤廃されて、中絶が簡単にできるようになり、日本は中絶天国とまで言われる位に中絶が激増します。1953年には、106万8006件と一気に100万件を突破します。100万件と言いますが、100万人の命がなくなったことになります。この数は、現在の日本の1年間の出生数を超えています。
「ベビーブームと交代する形で『中絶ブーム』が到来したということである。1957年には、人工妊娠中絶対出生比は71.6を記録している。10人が生まれる間に7人が中絶されているという異常事態である。ちなみに、この年の中絶数は156万6713件を年間出生数112万2316人に足し込んでみると268万9029人になり、ベビーブーム期にあった1947-1949年と同じ水準だ。『中絶ブーム』は日本経済の高度成長と足並みを揃えるように、その後も延々と続くことになる」(河合雅司 前掲書)。
一度門戸を開いてしまえば、その流れを止めるためには、相当な理由とエネルギーが必要です。だから、方向転換をしようとする時は、慎重の上にも慎重を重ねるくらいの用心深さが必要です。
戦前は、政治的な判断ミスにより各所の戦線において大きな犠牲を出してしまい、それは誰の目にも明らかです。ところが、戦後のミスは殆ど目立ちません。しかし、犠牲者の数はもしかしたら戦後の方がはるかに多いかもしれません。
少子化の問題は根が深い問題です。3回にわたってその歴史を辿ってきましたが、次回もこの続きを行いたいと思います。
子育て環境を整えれば、子供が増えるといった単純な問題ではないことをご理解いただけたのではないかと思っています。折角ですので、次回も少子化の問題を扱いたいと考えています。祖国・日本の行く末をともに考えていただければ有難いです。
読んでいただき、ありがとうございました。
よろしければ、「ブログ村」のクリックをお願いします ↓
にほんブログ村
関連