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少子化問題の解決のために / 人口問題、人口政策を歴史的に検証する中で、その原因を探る

  • 2020年9月18日
  • 2020年9月18日
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女性

「少子化対策について、管新総理は発言されていましたが、いかがですか?」

「政府として少子化対策担当大臣を決めて取り組む姿勢を見せていることは評価できますが、少しピントがずれているというのが率直な感想です」

女性

「管新総理が言っていたことは、子育て環境を整えるということと、不妊治療に保険が適用できるようにするということを言っておられました」

「ただ、少子化の原因を科学的に分析して、その原因を一つひとつ解消していくことをしなければ解決しないと思います」

女性

「子供の数の問題はプライベートな問題なので、政治が関与できないと考えている人もいるのではないでしょうか?」

「もちろん強制することはできません。だけど、啓蒙活動や政策によって、そういう方向にもっていくのは政治に関わる分野の仕事だと思います」

女性

「子育てということ自体が、私的なことでもあり、公的なことでもあるということですね」

「どういう子育てをするかというのは、子供に対する責任であると同時に、社会に対する責任でもあります」

女性

「両面あることを忘れてはいけないということですね」

「ところで今日は、昨日に引き続いて少子化問題を取り上げます。その歴史を辿っていますが、初めて知ったようなことはありましたか?」

女性

「戦前の日本が人口増で悩んでいたとは驚きました」

「昔は子供のうちに死んでしまうことが多かったので、それを見越して多めにつくったということもあったと思います」

女性

「農家は働き手が欲しいので、子供を多くつくったのでしょ」

「私の母は8人兄弟ですからね。ただ、当時はそれほど珍しくなかったということです」

女性

「何事もナチュラルだったのですね」

「戦後になって、産児制限が当たり前のような風潮が出てきます。そして、そのうち地域や学区が崩壊して、人と人との出会いや結びつきが弱くなっていきます。そういったものが、複合的に絡み合って少子化が起きています」

女性

「まだ危機感が共有されていませんが、このままいくと、1000年後の3000年には日本人はわずか1000人になるという計算だそうです」

「カウントダウンされたりするかもしれませんね……」

女性

「ここからが本論です ↓」

 突然出てきた「産めよ増やせよ」政策

厚生省の付属機関として設置された人口問題研究所の初代岡田文秀氏は、1939(昭和14)年の国民新聞に「多すぎる人口をなんとかしなければならぬといつたのは昔のことだ、東亜新秩序建設の聖業に国を挙げて邁進する今日、人間はいくら多くても困らない、今は人間が足りなくて困つてゐるのだ」(5.31日付)というコメントを寄せています。

今まで、人口が多いので満蒙開拓団まで組織して移民政策をしていたのに、180度方向転換をしたのです。少なくとも、1936年までは国内の人減らしのために移民政策を維持していたことは確かです。1936年の大阪毎日新聞が「わが人口問題 全面的国策樹立の急務」と題して、その中で日本の商工業が近年めざましく発達し、人口増加をある程度吸収し始めているが、人口増加の勢いに及ばない。そのため「人口食料問題は十数年来わが国民の頭を悩まし来つた所であるが、今以て何らの目鼻がつかず、しかも最近においては他の目前の問題のために気を奪はれて……」

どうして、このように人口政策が180度変わってしまったのでしょうか。その背景には、国内における軍部の台頭、それに伴う中国(満州)政策の変更と関係が深いと思われます。

1931年 満州事変

1932年 5.15事件、 関東軍の後ろ盾により満州国(皇帝/溥儀)が建国される

1933年 国際連盟脱退

1936年 2.26事件、日独伊三国防共協定の締結

1937年 盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が起こる

この間の流れを簡単に年表にしてみました。1932年の満州国の建国が人口政策を大きく変えたきっかけになったと思います

つまり、軍部が実権を握る中で、日本の生命線である満州を軍事的に守りつつ、満蒙開拓団による開発という2本柱の方針が打ち出されるようになり、その遂行のためには多くの人口が必要ということになっていったのではないかと推測されます。

1945年の終戦まで、満州の地に約27万人の日本人がそれぞれの夢を描いて移民として渡っていったのです。しかし、その夢は、日本の敗戦によって終わりを告げることになります。

 

 アメリカに2度と逆らわない国になるように改造される

戦争が終わり、都市部を中心に焼け野原が延々と広がるだけの日本の風景がそこにはありました。経済活動どころでなく、明日の食糧にも困るような状況でした。それを象徴する事件が1946年の5月19日に皇居前広場に集まった25万人の「食糧メーデー」です。このメーデーは、「米よこせデモ」として全国に波及していくことになります

敗戦直後からGHQによる日本占領が始まります。GHQと言っても、実態はアメリカ占領軍です。日本国憲法の制定や各種労働関係法規、教育基本法の制定に関与するなど、戦後の日本の基本的政策の枠組み作りに関与します

それと並行して、GHQは人口調査を丹念にしています。1945(昭和20)年から1950(昭和25)年までの間に、実に6回の人口調査を実施しています。どうして、ここまでこだわる必要があったのか。そこには、人口の増減が国の政策に大きく影響を与えるというGHQの見解があったからです。

彼らは日本の人口が増えることを恐れたのです戦前は、人口増が結局一つの起爆剤となって日本が戦争に突き進んだと分析していたのです様々な法制度を作っても、人口増が継続すれば、日本が共産国化するか、また再び海外に活路を求め始めるのではないかと考えていたのです。

 

 人口抑制の方向に誘導するように働きかけが行われる

そういう中で1948(昭和23)年に朝鮮戦争、1949(昭和24)年に中華人民共和国が誕生して、アジアの勢力地図が変わると同時に、東西冷戦の縮図が東アジアにおいても形成されます。この状況変化を受けて、アメリカの対日占領政策が180度変わります。日本を敵として追いやるのではなく、味方に引き付けて反共防波堤になってもらうことを期待し始めます。そのため、1951年に講和条約を結び、日米安保条約を結びます。講和条約は簡単に言えば、仲直り条約です。ただ、これは単に日本が共産主義陣営に入らないようにするために結んだ条約であり、日本に対する不信感が完全になくなったから、あるいは真に友好関係を結びたいから結んだ訳ではありません。そこを読み間違えてはいけません。日米が本当に信頼関係を結ぶのは、21世紀になってからです。安倍首相の外交努力のお陰なのです。

それはさておいて、大陸と半島での激変が起きた瞬間に「占領政策を指揮するマッカーサーは、日本の人口膨張を何としても喰い止めなければならなくなった。『経済復興の責任をすべて日本政府に負わせる』との占領方針は見直され、日本は共産主義進出を防ぐための盾と位置づけられた」(河合雅司『日本の少子化百年の迷走』新潮選書.2015年)のです。


その後、アメリカが巧妙に日本の人口をコントロールしていくようになります。表舞台に立つと、大変な人権問題になりますので、それとなく日本人が自主的に行うように仕向けます。紙数が尽きました。続きは明日のブログに載せたいと思います。

読んでいただき、ありがとうございました。

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