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後醍醐天皇、倒幕の志と親政政治への思い ―—「建武の中興」 / 武家政権となり「押込め」が横行

  • 2024年8月20日
  • 2024年8月20日
  • 歴史
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「日本の歴史を紐解くと、天皇が政権をひっくり返そうとして動いた時代があります。後醍醐天皇の「建武の新政」ですが、その辺りのことを勉強しましょう」

女性

「時代的には、どの辺りですか。真ん中辺りだということは分かります」

「鎌倉から室町時代に移る頃です。時代的には、14世紀です」

女性

「素朴な疑問ですが、どうして倒幕を考えたのですか?」

「実はその理由も含めて、よく分かっていないのです。武家政権に対して、何らかの不満があったことは確かでしょう。ただ、いつ頃から、如何にして討幕を考え始めたのかということについて、殆んど分かっていないのです」

女性

「そうなんですね。そういった動きは、その時代になって急に現れたものなんですか?」

「いろいろな説がありますが、後醍醐天皇が一番理想としたのは、その400年余り前の時代の醍醐・村上天皇の時代だと言われています」

女性

「だから名前が後醍醐なんですね」

「その時代を「延喜・天暦の治」と言って、摂政、関白を置かないで天皇の親政が行われたのです」

女性

「単純にそれを見習ったという以上の理由があると思いますけど……」

「そうでなければ、あれだけのエネルギーを割くことはないと思います。とにかく後醍醐天皇は歴代天皇の中でも群を抜いてエネルギッシュな方だと思っています。短い文章ですが、そんなところを読み取って頂ければと思います」

女性

「ここからが本論です ↓」

 「建武の新政」か、それとも「建武の中興」か

山川の『日本史』には「建武の新政」とあります。多分、これが歴史学会公認の言葉だと思いますが「建武の中興」が正しいと思います。建武年間というのは、1334年~36年までの時代を指します。その時代に、後醍醐天皇が久しく途絶えていた天皇親政(天皇中心政治)を始めようとしたのです。何か新しいことを始めようとした訳ではありません。

古代の天皇は権力者として君臨します。民をまとめ、国をまとめるためには、どうしても巨大な権力が必要と考えられた時代があったのです。天武天皇の前の天智天皇は権力者としての天皇を目指した方ですが、次の天武天皇は日本という国にふさわしい天皇のあり方を模索します。そして、天武・持統期を境に国名が日本となり、天皇という称号が使われるようになり、律令制が導入されます

律令制の導入に伴って「シラス・ウシハク」の統治システムが導入され、天皇はシラス者として一歩離れた位置から国家・社会全体を治める立場になります。その律令の時代を否定する様な動きが「建武の中興」だったのです。

(「平成寺子屋  桜下村塾/ Facebook」)

 武家政権となり「押込め」が横行

奈良・平安時代は律令制の安定した時代が続きます。途中、いくつかの反乱がありつつも、武士が台頭する12世紀頃までの約350年間は平和な時代でした。

平氏が専制政治を始めると、朝廷との関係がぎくしゃくし始めます。歴史学用語では「押込め」と言いますが、天皇・上皇に圧力をかけたり、時には幽閉をしたりして政治的文書を出させる行為です。そういったことが武家が政権を執って以降、しばしば起きることになります。

そのことに対する朝廷側の不満が根底にあったことは確かだと思います。そして、天皇親政政治のきっかけは元寇でした。鎌倉幕府の時代に文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)が起きます。いわゆる蒙古襲来です。その際に、亀山上皇が院政を執っており、その姿を若き皇子の後宇田天皇が見ていたのです。後醍醐天皇はその後宇田天皇の御子だったのです。親から子へ、その意志が受け継がれたと考えるのが自然だと思います。

(「東洋経済オンライン」)

 後醍醐天皇、倒幕に立ち上がる

後醍醐が践祚(せんそ)、つまり皇位を継承したのが31歳の時です(1318年)。すぐに行われたことが記録所の設置でした。これは民の生活を直接聞くための機関で、天皇自ら訴えを聞かれたとされています。また、宮中の年中行事や社寺の祭儀を復興し、伊勢神宮に公卿を数十年振りに遣わすなど、伝統行事を重要視していたことが分かります。

後醍醐天皇の時代は、大覚寺統と持明院統の「両統迭立」(りょうとうてつりつ)の時代でした。後醍醐天皇は大覚寺統でした。そのように、天皇を両院から出すのですが、話し合いで決定した後に幕府の許可が必要でした。そういったことに対して、多分不快感を持っておられたと思います。

「公家一統」、つまり朝廷による一元的統治という古代の天皇親政政治を目指して立ち上がります。ところが、彼の倒幕計画(正中の変、元弘の変)は2回とも失敗します。元弘の変の時は、後醍醐天皇は隠岐に配流されてしまいますが、その後鎌倉幕府は滅亡します(1333年)。そのタイミングで隠岐から脱出した後醍醐天皇は、再び皇位に復することになります。そこから「建武の中興」と言われる新政が始まりますが、3年で瓦解してしまいます。後醍醐天皇は吉野に逃れ、その結果、京都と吉野に2つの朝廷が並立することになります。世に言う南北朝時代に突入するのです。

(「yayoigaoka-seminer.com」)

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