「結婚する時に、旧姓を捨てることに抵抗はありませんでしたか?」
「無かったと言えば、嘘になります。慣れ親しんできた姓でしたからね」
「彼とは姓について何か話し合いをしましたか?」
「いえ、全然、そう言われれば、当然彼の姓になるものだと思っていました」
「じゃあ、彼の方も、当然自分の姓を名乗ってくれると思っていたのですね」
「半ば、常識というと変ですが、ごく自然に……」
「何も考えず……」
「そう言われると、殆どおバカな2人みたいじゃあないですか」
「選択的夫婦別姓ということが、ここのところ話題になるのですが、率直に言ってどうですか?」
「どう思いますか、と問われると、日本人は別に良いんじゃあないのと言いそうですよね」
「それはどうしてだと思いますか?」
「だって、争うのを良しとしない民族じゃあないですか。そして、選択という言葉がミソだと思います」
「何か選択の幅が広がって、良いことだと思ってしまうのでしょうか」
「言葉のイメージからすると、そうなりますね。聞いた瞬間に、悪い話ではないのではと思ってしまうのです。ましてや、そこに欧米ではとか、今の流れといった理屈をつけて説明されると……」
「思わず、賛成ということになるのですかね」
「ただ、そのような場面に遭遇したら、一人ひとりが立ち止まってよく考える問題だと思います。(ここからが本論です)」
選択的夫婦別姓にむけて反日的組織が暗躍している可能性あり
夫婦別姓にむけて、反日勢力が動いている蓋然性が強いです。日本は地政学的に重要な位置にあるため、大陸や半島の国々からすれば邪魔な存在に映ります。ひと昔前であれば、何か口実を見つけて軍事攻撃をかけて日本の統治権を奪うことを考えると思います。現実に今や中国の軍事費は2610億ドル、対する日本の防衛費は476億ドルなので実に5.5倍です(2019年.SIPRI/ストックホルム国際平和研究所発表)。空母も「遼寧」と「山東」の2隻を保有していますので、一戦を交えても訳もなく完勝するレベルです。
それが現代では無理なので、様々なイデオロギー攻撃をマスコミや反日団体などを通して仕掛けています。日本の社会を根底において支えているのが家族制度です。夫婦別姓は、そこに目をつけた作戦です。理屈は、いくらでもつけることができます。そういった捉え方をする必要があります。
どうして、そのように判断しているのかということですが、2015年12月、「夫婦同姓」を定めた民法の規定について、最高裁大法廷が「合憲」とした判決を出しています。「夫婦同姓」が「社会に定着しており、家族の姓を一つに定めることには合理性がある」というのが理由でした。
大法廷でそのような判決が出た以上、その後同じような訴えをしても判決は変わらないでしょう。ところが、その後も同じ様な別姓訴訟が東京都(損害賠償額10円)と広島県(損害賠償額50万円)で提起されています。訴訟費用は損害賠償額に比例してかかります。額が少ないのは、敗訴することが分かっているため、訴訟費用を抑えたいと思っているからです。さらに、2020年2月には、東京高裁で控訴審判決があり、やはり敗訴しています。これも最高裁に上告されるとのこと(「日経」2020.2.27日付)。これらは話題作りと世論喚起を狙っての訴訟提起だと思います。
そういった法廷戦術と全国の市町村議会や県議会への陳情、さらには国会議員への要請など動きが組織的です。2019年3月には、三重県では「選択的夫婦別姓制度の法制化を求める意見書案」という請願が29対18で採択されています。そもそも、夫婦別姓といった国民全体が関わることについて、地方議会で審議することでもないし、ましてや賛否を問うことではありません。もう少し、真剣に対応してもらいたいと思います。
不便なので何とかして欲しいという感情的なレベルを超えて、そこには日本の社会を根底から破壊するといった魂胆めいたものを感じます。ただ、この辺りはやがて背景も含めて、何かのきっかけで分かってくるだろうと思っています。
姓の問題は、その国の伝統と文化の問題
姓をどのように定めるかという問題は、その国の歴史と文化、家族政策に絡んでくる問題ですので、単純に世界の多くの国がそうだからとか、不自由だからといった理由で変えることは得策ではありません。そして、女性活躍の時代だから、という人がいますが、別姓を導入したからといって、急に活躍するようになる訳ではありませんし、旧姓でも何不自由なく社会で生活できるシステムを構築すれば足りる話です。
日本の姓の始まりは、古代王朝制と関係があります。ヤマト政権が5~6世紀の頃に、氏姓制度を導入します。これは大王(天皇)が統治をする上で力になってくれそうな家来に氏、そして後になって姓を授けたところから始まっています。
蘇我、物部、大伴、葛城、春日、秦といった氏が、その時に与えられた氏です。姓というのは、官位です。臣、連、伴造といった位が創設されます。
武士の時代になると、力を得た武将が名前に苗字をつけて、名乗るようになります。侍も出世をすると、仕えている武将から苗字をもらうようになります。一番分かりやすいのが、豊臣秀吉です。彼は農民出身なので、苗字はありません。幼名は日吉丸です。織田信長に仕え、活躍が認められ木下藤吉郎と名乗り、羽柴秀吉となり、豊臣秀吉となります。豊臣は苗字ではなく、朝廷から頂いた姓です。
身分、職業に関係なく誰でも苗字を名乗って良くなったのは、明治時代(明治3年)からです。さらに明治政府は明治9年に「結婚後も妻は実家の姓を名乗る」との指令を出しています。つまり、明治政府は最初、夫婦別姓を導入したのです。
なぜ、そのような指令を出したのかということですが、江戸時代の武士たちが妻の出自が確かであることを世間に知らしめるために、結婚後も慣習的に旧姓を名乗らせていたことがあり、それを踏まえての措置だったようです。ただ、時代は四民平等の時代です。指令が徹底せず、同姓と別姓が混在する状態だったようです。そのため、明治31年に「家」を単位とする戸籍制度が導入され、「妻は婚姻により夫の家に入る」ということになりました。そのため、婚姻は「両家の合意」とされたのです。
この「家制度」は貴族階級から、武士階級にまで広がったシステムを改めて日本全国に適用しようとしたものでした。この措置は、長年日本で慣行的に行ってきた「お見合い文化」を法的に承認したものだったのです。
ところが戦後の個人主義をベースにする憲法が制定されたため、結婚が「両性の合意のみ」(憲法第24条)に基づくことになりました。この個人主義的な結婚観の導入が人口減をやがてもたらすことになります。文化が廃れると、国は滅びの道に歩を進めるのです。選択的夫婦別姓を仮に導入すれば、この動きが加速すると思っています。運動する側も、それを承知で推進しているのです。
選択的夫婦別姓を導入すれば、家族の結束力は確実に弱くなる
選択的夫婦別姓を導入する人の理屈の一つとして、ヨーロッパ各国で導入されているからと言います。どうして、歴史も文化も違う国の真似をしなければいけないのかがよく分かりません。
「時代の流れ」という観点からの批判もあります。どちらかの姓に固定するのは「時代錯誤」という言葉で批判しますが、錯誤かどうかは後で分かること。今の時点で判断はできません。
何でも、新しくすれば良いというものではありません。時代の流れだと言って、新しく事業展開して破綻する企業もあります。もしかしたら、止めてしまったものの中に、守るべき伝統があったのかもしれません。
それから世界各国を細かく調べると、実に多彩だというのが分かります。結合姓を認めている国(フランス)もあります。結合姓というのは、姓がどちらかに決まらない場合は、両者の姓を結合させるというものです。日本で言えば、浅川と田中が結婚して、浅川田中という姓を作るということです。オーストリアは母親の姓が優先されるとのこと。トルコ、イタリアは父親の姓を選ぶと規定しています。(もし、興味があればインターネットで「海外の夫婦別姓状況」で検索してみて下さい)。
子供の姓はどうなるのかが、気になるところです。兄弟の間に混乱が生じないように統一するところが殆どですが、例えばオーストリアは、子供の性は出生時に決め、兄弟は別々の姓でも可能とのことです。
人間というのは、生物学的に弱い存在です。だから、同じ場所で同じ姓を名乗り、お互い目的をもって助け合いながら生活をすることによって、社会生活を送ることが出来ているという面があります。特に、農耕民族の日本人にとって連帯感というのが大事ですし、その一つの大きな証が姓の統一だと思います。
姓を一つにする時に、人生のパートナーとしてお互いそれを暗黙のうちに承認したのだと思います。そのこと自体が大事なことなのです。人生行路はいつも順風満帆ではありません。暴風雨になった時に、心の拠り所になることもあるのです。
姓が変わらないということは、個人の男と個人の女が、たまたま同じ家に住んで生活をするという状態を国が認めることになります。家族で意見を合わせる必要がなくなります。不動産とか金額が大きいものの契約については、夫婦の連名にする必要が出てきますし、学校の保護者会は夫婦の参加を原則とする必要があります。その他、いろいろ不都合なことが出てきそうです。そして、虐待や育児放棄は、さらに増えることが予想されます
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