「能登半島地震の被害状況が分かってきましたが、かなり深刻だと思いました。素朴な疑問ですが、前回のブログで緊急事態条項が必要とおっしゃっていましたが、救助や瓦礫の撤去に動き出していますよ」
「質問の趣旨は法的根拠だと思いますが、災害救助法に基づいて、自衛隊や警察、消防関係に出動要請が出ています」
「そういう法律があるのですね」
「戦後すぐに制定されました。救助の種類とか、救助の費用に対する国庫負担の割合などが定められています」
「緊急事態条項が無くても対応できるのですから、わざわざ憲法を改正する必要がないように思いますけど……」
「そういう意見を言う政党もあります。法的整合性のために必要ですし、一種の「保証」・「保険」だと考えて下さい」
「法的整合性?」
「瓦礫でも厳密に言えば全て所有権が引っ付いています。所有権は憲法によって保障されていますので、それを下位の法律によって処理をするのは論理矛盾です。仮に、修理をすれば動いた自動車を撤去されたので弁償して欲しい、と言われた時に対抗できません」
「要するに、お墨付きを得るための緊急事態条項ということですね」
「そうですね。自衛隊もそういう意味では同じです。自衛隊法という法律がありますけど、日本の国防の部隊というお墨付きを得ることが大事です」
「今年は今回の地震で宮中での一般参賀が見送られましたけど、皇統の問題も緊急性があると思っています」
「『日経』が珍しく1/3日の社説で「皇室の将来を見据えた継承策」を説いていました」
「私は女性として、佳子様のことが気がかりなのです。お姉様があのようなかたちで日本を離れてしまい、内心寂しいのではないかなと思っています。誰が良い人がいれば良いのにと思っています」
「女性皇族の結婚後の処遇問題が解決しないと、宮内庁も動けないのではないかと思っています」
「そういったことを含めて、国会の動きが悪いと思っています。ここからが本論です ↓ 表紙は「高森明勅公式ブログ」からのものです」
天皇は権力者を権威づける人
日本は世界一古い王朝の国です。皇紀については異論をはさむ人がいますが、そういう方たちでも万世一系、少なく見積もっても千数百年の長きにわたって天皇家が続いてきたことは認めています。そして、その王朝は現在も続いています。何故、そのような長きにわたって皇位が継承されたのでしょうか。一言で言えば、周りが支えようとしたからです。
何故、皇室を支えようとしてきたのでしょうか。支配者として君臨したのではなく、シラス(治ラス、知ラス)者、つまり現実政治に直接関わらない権威者として振る舞ってきたからです。
大陸の王は支配者・権力者として振る舞いました。そのため、打倒される対象者となり、革命によって打ち倒されていったのです。日本の場合は、天皇はシラス者であり権威者だったので、権力者によって守られたのです。これが千数百年の長きにわたって天皇家が続いた理由であり、秘訣だったのです。
(「木崎洋技術士事務所」)
天皇支配では、辻褄が合わない
日本の歴史学者は、愚かにも古代から明治にかけて天皇支配が続いたと捉えているようです。日本全国を中央集権的な権力によって千有余年という長き時代を支配したと言うのです。そんなことが出来る訳がありませんし、世界にそういう国はありません。
中央集権的な権力統治が行われるためには、官僚を育成して、全国に配置しなければいけません。中国はそういった官僚を採用するために科挙を導入しました。世界一難しい試験と言われています。その科挙によって選抜された人材が皇帝の手足となって地方に配属され、彼らが中央集権を支えたのです。
日本では、そのような官僚を養成したという話は寡聞にして知りません。というか、そういう事実はないのです。天皇支配を叫びながら、それを支えたシステムについて何も解明していない。日本の歴史学のミステリーと言うか、日本歴史学の完全な怠慢なのです。皇統を支えたメカニズムがあるはずなので、それを専門の立場から解明する必要があるのです。解明せずに、単純に「支配」という言葉で逃げているだけです。
(「You Tube」)
日本という国家の中心軸が皇統
国家も一つの大きな組織です。組織である以上、中心軸が必要です。それは会社の中に、取締役会があり、社長、会長がいるのと同じです。その中心組織が安定していれば、会社も安定します。国の安定も同じ理屈で説明できます。
男系の男子が皇位を継ぐという原則は、古代の時代から定まっています。中には、18世紀に成立した平等権を理由にして、女系天皇でも構わないのではと説く方がいますが、時代の重みがある伝統的なルールを、後から出てきた考えで覆(くつがえ)すのは、基本的には止めた方が良いでしょう。国の乱れに繋がります。
そもそも天皇は単なるシンボルではなく、宮中で年間20以上の祭礼をこなす祭主です。天皇は一般の国民が享受している自由や権利はありません。それを放棄した上で祭主の役割を果たしています。そういう自己犠牲が求められる、ある意味で過酷な地位だと思っています。
それを応援するために、多くの国民は一般参賀に出かけるのです。
(「新嘗祭」/中日新聞)
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