
「インパール作戦を知っていますか?」

「聞いたことがある、という程度です。大きな失敗をしたという印象があります」

「日本軍が3万人の死者を出したと言われるのがインパール作戦です。撤退の時に、飢えと病で兵士が次々と倒れ、「白骨街道」と呼ばれました。そのインパール作戦から生きて帰ってきた元兵士の佐藤哲雄氏の証言がインターネットで公開されていました」

「まだ、ご存命なのですね」

「そういう方がいるんだなと思い、私も驚きました。そして、その方のお年を聞いてさらに驚きました。105歳です」

「そういう意味で貴重な証言なんですね。ところで、インパール作戦というのは、どういう作戦だったのですか?」

「ビルマを占領した日本軍が連合軍の拠点だったインド北東部の攻略を目指した作戦です。武器や食料などの物資補給を兵站(へいたん)というのですが、それが充分でなく、今では「無謀な作戦」とされています」

「どうして無謀な作戦を立ててしまったのですか?」

「そもそも米英を相手に戦争を仕掛けること自体が無謀だったのです。すべての作戦が無理があったのですが、とくにインパール作戦はかなり無理な作戦であったと言われています。佐藤氏の上司にあたる方が佐藤幸徳中将ですが、彼は「大失態」、「実行不可能」と言って、勝手に撤退したそうです」

「その判断があったから、佐藤哲雄氏は助かったのでしょ」

「佐藤中将が率いる第31師団は途中で撤退したため命が助かったということで、佐藤中将に感謝する元兵士たちが山形県の「乗慶寺」に追慕碑を建立したそうです」

「ここからが本論です ↓ なお、このブログは火、木、土の週3回配信です。表紙画像は「You Tube」提供です」
無謀な「インパール作戦」と空想的兵站(へいたん)計画
1944年3月、日本陸軍はインド北東部マニプール州インパールへの侵攻作戦を開始しました。結果的に英軍に完敗し、約10万人の日本軍のうち3万人以上が犠牲となります。その多くは戦闘ではなく、飢えや疫病、そして近年指摘される自殺によるものでした。過酷な行軍や病苦、負傷の痛みに耐えきれず、自ら命を絶つ兵士が少なくなかったのです。
この作戦の最大の問題は兵站の欠如でした。作戦参謀・牟田口司令官は「ジンギスカン作戦」と称し、牛に武器・弾薬を運ばせ、途中でその牛を食料にするという計画を立案。しかし牛を食べてしまえば輸送手段を失い、今度は兵士自身が荷物を担ぐ必要が生じます。現地人を労働力として徴用する案も盛り込まれていましたが、険しい山岳地帯では現実的ではありません。さらに、帰路の食料計画も欠落しており、全体的に空想的な構想でした。
インパールまでの道程は標高1,000メートルを超える山々と深い谷、急流の川が続きます。補給路は整備されておらず、雨期には泥濘(ぬかるみ)と化して前進が困難になります。英軍は航空機による補給が可能でしたが、日本軍にはその手段がほぼなく、現地調達に依存するしかありませんでした。戦争指導層の現実認識の欠如が、この悲劇の土台となったのです。
(「You Tube」)
現場を知らぬ参謀と兵士の極限行軍
陸軍の組織的問題として、作戦立案を担う参謀が現場の実情をほとんど理解していなかったことが挙げられます。インパール作戦に参加した歩兵第58連隊の元兵士たちの証言によれば、兵士は米20日分、調味料、銃弾240発、手榴弾6発、小銃、鉄帽、つるはしなど、総重量40kg近い装備を背負い、山道を1日30~40km進みました。
休憩後に荷物を背負おうとして立ち上がれず、手足をバタつかせて“亀の子状態”になる兵士もいたといいます。昼間は戦闘、夜は行軍という日もあり、雨や蒸し暑さが体力を奪い、意識が朦朧とすることもありました。こうした状況では、仮にインパールに到達しても士気は崩壊していたでしょう。現場の師団長の一人柳田元三中将は早期に作戦中止を上申し、さらに佐藤幸徳中将は「全軍総死骸になる」と判断し独断で退却命令を出しましたが、牟田口司令官は作戦遂行に拘りました。
さらに、この過酷な行軍では負傷者や病人が続出しました。マラリアや赤痢が蔓延し、治療薬も乏しく、衛生環境は劣悪を極めました。担架で運ばれる兵士は増える一方で、部隊の行軍速度は著しく低下します。飢餓状態では精神的な耐力も失われ、部隊間の連携も乱れます。結果として戦闘能力は日に日に失われ、戦う以前に部隊は壊滅状態へと追い込まれました。
(「X」)
陸軍組織の硬直と「天皇教」的発想
1941年の開戦時点で、陸軍省の試算によれば日米の総合国力比は1対15でした。それにもかかわらず対米開戦に踏み切った背景について、三根生久大氏は、陸軍が「天皇教」とも言える狂信的信仰に染まり、合理的判断を失っていたためだと指摘します。
陸軍は「神州不滅」「八紘一宇」といった理念を軍人教育の基盤に据え、非科学的なナショナリズムを明治以来信奉してきました。参謀本部作戦課は陸軍大学校出身の成績上位者=軍刀組で占められ、同質な人材のみが集められた結果、多様な意見や現実的発想が排除されました。軍刀組というのは、陸大卒業生の上位10%の者を指します。天皇から軍刀を下賜されるところから軍刀組と呼ばれるようになったのです。戦場経験の乏しい彼らが机上で立案した作戦は地に足がつかず、アメリカとの無謀な戦争、そして敗戦へと至ったのです。
この硬直した組織構造は、意見の相違や現場の情報が上層部に届きにくい仕組みを固定化しました。下級将校や現場指揮官が警鐘を鳴らしても、上位組織の判断を覆すことはほぼ不可能でした。そのため、間違った方向性が決まれば、修正されることなく全軍に適用されるといったことが常態化していたのです。インパール作戦もまた、その構造的欠陥が極端な形で露呈した事例でした。
[参考記事] 「史上最悪のインパール作戦」(『日経』2025.8.14日付)
〔参考文献〕三根生久大(みねお・きゅうだい)『帝国陸軍の本質』(講談社、1995)
吉田裕 『続・日本軍兵士』(中公新書、2025)
(「Yahoo!オークション-Yahoo! JAPAN」)
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