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岩倉使節団の“見聞録”が語らないもの ── 文明開化の代償を問う / 「脱亜入欧」を確信した旅

  • 2025年7月15日
  • 歴史
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「今日は岩倉使節団について、語りたいと思います」

女性

「明治維新の時代に一挙に戻るのですね」

「たまには歴史の話をしないといけないなと思いますので……」

女性

「それにしても、岩倉使節団を選んだ理由は何ですか?」

「明治の藩閥政府が西洋の近代化を推し進めますが、この使節団派遣が大きなきっかけを与えたからです」

女性

「使節団派遣の目的は何ですか?」

「名目は条約改正ですが、実際には世界一周の観光旅行です。アメリカからヨーロッパ各国を回って、出来たばかりのスエズ運河を通って、東南アジアの都市をいくつかまわって帰国しています」

女性

「大旅行ですね。私も行きたいわ」

「1年10か月の長旅でした。帰ってきたのが1873(明治6)年の9月です。この年に内務省が設置されています」

女性

「政府の中身をつくっている頃なんですね」

「国内体制を作らなければいけない時に外遊をしたということです」

女性

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「You Tube」からのものです」

 岩倉使節団の出発とその本音

明治政府が成立して間もない1871年、新政府の中枢を担う岩倉具視を団長とする使節団が、欧米諸国へと長期にわたる視察旅行に出発しました。名目上の目的は「不平等条約改正の予備交渉」でしたが、実際には西洋文明の実地見聞が主眼であり、交渉というよりも物見遊山に近いものでした。

留学生を含め、総勢100名を超える大使節団が、約1年10か月ものあいだ欧米を巡るという前代未聞の視察です。宿泊先は一流ホテル、使用する部屋は最上級。費用の工面はどうしたのか。政権を執り、通貨発行権を手中にしたので何とでもなったのです。極端な話、数字を書いて印刷機を回せば、いくらでも資金は手に入ったのです。

三宅雪嶺が「名ばかりの大使副使で、観光団に等しい」と痛烈に批判したのも当然でしょう。政権構想が固まらないまま、統治の方針も示さず出国してしまった当時の藩閥政府には、国家運営に対する責任感の希薄さが透けて見えます。しかし皮肉なことに、中央集権体制を骨格とする近代日本の設計図が描かれたのは、この視察の最中だったのです。

(「日本経済新聞」)

 畳の生活とベッド文化──何を考えるべきだったのか

使節団は、訪れた西洋各国の近代化された生活様式に連続して驚嘆します。例えばサンフランシスコのグランドホテルに宿泊した際には、「ベッド」や「部屋にトイレがある」こと、「クローゼット」「洗面所」「蛇口をひねると水が出る」といった当時の日本では考えられない設備に驚きを隠せなかったようです。

報告書『米欧回覧実記』には、それらの驚きが写実的に記されていますが、ただ「驚く」にとどまっており、それを社会制度や文化の面から考察しようという視点は見受けられません。例えば、西洋文明を移入すれば、広い居住空間が必要となりますし、机・椅子の生活が多くなれは正座よりも姿勢が悪くなりますし、腰への負担が大きくなります。現代人で腰の不調を訴える人が多いのは、そんなところが遠因としてあるのではないかと思っています。

一方、来日したシュリーマンは、日本の質素ながら柔軟な生活空間に深い感銘を受けています。畳一枚あれば、食事、勉強、団らん、就寝と多目的に使える日本の居住空間は、むしろ合理的で美しいと彼は評価しました。畳文化の特性を理解すれば、西洋家具の導入が日本に与える空間的・社会的影響を予見できたはずです。ベッドや机、食卓が定着すれば、部屋数やスペースが増え、大家族制が崩れ、多産も困難になる。そうした変化への想像力が、使節団には決定的に欠けていたのです。

(「楽天ブログ」)

 異文化理解の限界と無批判な導入

使節団は欧州でも引き続き驚嘆を連ねますロンドンの高層ホテルに宿泊した際には、「雲中に入る心地」と記し、道端で男女が抱擁する光景には「卑猥の習俗」と嫌悪感を示しています。日本文化では「恋は忍ぶもの」という感覚があり、人前で愛情を示すのは品がないとされてきました。たとえば『枕草子』にも、人目を忍んで夏の夜に逢う情景が美として描かれています。そうした感覚を持つ彼らにとって、欧米の公然たる愛情表現は確かに衝撃的だったでしょう。

しかしながら、異文化に対する驚きや違和感を「認識」するだけでは不十分です。そこに文化的背景や価値観の違いを見出し、制度や習慣を移入する際に検証・熟慮する姿勢が必要です。ところが使節団の記録には、そうした省察がほとんど見られず、「驚いた」という感想が並ぶのみです。

彼らはアメリカからヨーロッパ各国を周り、スエズ運河を通って紅海を南下して、東南アジア経由で帰国の途につきますが、途中セイロン、シンガポール、サイゴン、香港に立ち寄っています。そこでの民衆の生活を描写的に書いていますが、根底に流れるのは蔑視観です。セイロン現地の人を「土人」と表現し、サイゴンでの様子を次のように記しています――「陸地に建てられた小屋は、前後の庭が荒れ放題で、アヒルやブタの囲いと隣り合っており、踏み荒らされた汚れた土地に家族全員が平気な顔で住んでいた。中国人が不潔さを嫌がらないのは、驚くほどである」。同じアジア人なのに、そこには同胞意識のかけらもありせん。西洋イデオロギーを浴び続け、脱亜入欧のスローガンはこの旅行の中で確信的なものになります

(「nippon.com」)

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