「昨日、NHKで『開戦太平洋戦争 日中英米しられざる攻防』という特集を放映していましたね。新しい資料をふんだんに使っていて、1時間番組でしたが思わず全て見てしまいました」
「誰にスポットを当てたのですか? 日本の誰かですか?」
「蒋介石の日記の記述を手掛かりに歴史を追いかけようとしたのだと思います。だから、蒋介石ですね」
「蒋介石の日記があったのですね」
「彼は几帳面につけていたのですね。資料としては一級品の価値があります。アメリカのフーバー研究所に保管されていて、2006年に公開が許可されました。ただし、コピーや写真撮影は許されておらず、研究者は通いでその内容を複写するしかなく、そこに10年間通いつめて翻訳作業にあたった大学の教授がおられたのです」
「そういう献身的な努力があったのですね。10年間ですか。それもあって、今まで内容が伝わっていなかったのですね」
「そうですね。今回の放送は、彼の日記を元にして作成されたものですが、彼の策略家、戦略家としての一面がよく分かります。そして、昨日の放送を見て、日中戦争の見方が変わりました」
「どのように変わったのですか?」
「実はアメリカの歴史学者のビックスは1930~40年代から日本の軍人たちが国際法自体を全くの西洋の産物と見做すようになったと指摘しています。昨日の放送を見て、ふとその言葉が脳裏に浮かんだのです」
「まるで、今の中国ですよね」
「あの時代は、今の中国が日本で、今の日本が当時の中国ですね。ただ一つの違いを除けば……」
「その違いとは何ですか?」
「中国の蒋介石は、まさに中国の中心的な司令塔の役割を充分果たしていたと思いました」
「今の日本には、いないと言いたいのですか?」
「その答えは、国民の皆さん一人ひとりが考えることだと思います。ここからが本論です」
知略家だった蒋介石
蒋介石の立場からすれば、国民党政府による中国の本土統一が目標だったと思います。そのためには、日本を何とかしなければいけない、ところが、まともに日本と衝突することは出来ない。それは敗退を意味しているからです。では、どうすればいいのか、そんなことを絶えず考えていたことが分かります。
1対1では、勝てない。しかし、第三国を入れれば勝てるかもしれない。そのため、イギリス、アメリカといった国が中国の味方になってもらうよう、情報戦略、ロビー工作などを使っていたことが分かります。彼の目的は、日本に勝つことではありません。それは出来ないだろうと達観しています。勝つことができなくても、撤退させることができるはず。蒋介石は機会を捉えて、ありとあらゆるルートを使って、イギリス、アメリカに工作を続けるのです。
(「Wikipedia」)
猪突猛進で中国大陸に向かった日本陸軍
それに対して、日本陸軍は猪突猛進で中国大陸に向かっています。糸の切れた状態なので、多分、途中から何のために中国大陸に軍隊を送っているのか、自分たちにも分からなくなっていたのでしょう。どこかで、和睦をして撤退をするタイミングを見出さなければなりません。最初の機会が、1937年に訪れます。
日本陸軍による南京陥落があった後に交渉が持たれます。南京陥落のニュースが流れると、日本ではお祝いの提灯行列が出たそうです。戦勝気分が日本を覆い、国の指導者たちも高揚します。そういったこともあり、中国に対する和平条件、相手が呑めないような厳しい条件のものになります。日本の司令塔不在の悲しさが出ます。
現地で中国との交渉役をしていたのが外務省東亜局長の石射猪太郎(いしいいたろう)氏です。彼の日記も残っています。彼はこの「和平工作に東亜の形成がかかっている」と思い、全力で任にあたりますが、途中から条件が厳しくなってしまいます。仲介のドイツ大使は「蒋介石はこれでは聞くまい」と語ったとのこと。それを受けて「こんな条件で蒋介石が講和に出てきたら彼はアホだ」と綴っています。日本上層部のアホさを暗に匂わせた日記の文章となっています。
蒋介石の日記を見ると、日本が厳しい条件を提示してきたので、彼は逆に安心したと書いています。何故か。中国内に日本に対する見方が分かれていて、日本と協調してという意見もあったそうです。戦略を巡っての内部対立があったところに、日本が到底吞めないような厳しい条件を急に持ち出してきたので、政権内は反日で固まり、蒋介石に求心力が戻ったのです。彼は腹の中でニンマリ微笑んでいたのです。蒋介石のような知略家が日本のリーダーであったなら、全く別の展開になっていたでしょう。
(「Twitter」)
戦略的に失敗に失敗を重ねる日本
1938年に第一次近衛内閣が成立します。ここでも日本は失敗をします。この辺りから、日本は戦略的に失敗に失敗を重ねます。近衛内閣では、中国国民政府を相手とせずという声明を出して、蒋介石との交渉パイプを切ってしまいます。
そして、次の過ちがドイツ、イタリアとの三国同盟です。日本はヒトラー率いるドイツの力を過信します。ヒトラーの演説ビデオが残っていますが、頭が動き過ぎです。スポーツと同じで指導者が演説の際にヘッドが揺れるのは良いことではありません。言っていることと、考えていること、あるいは行っていることが違うことが多いということです。日本はヘッドが揺れる国と軍事同盟を結びます。それは、必然的にイギリス、アメリカを敵に回すことになります。
そして最大の過ちはアメリカとの開戦です。国力の差は歴然としていました。大リーガーと高校野球の選手が試合をするようなものです。先制点をあげたものの、地力がある大リーガーが圧勝します。結果は誰もが分かっていたこと。悔し涙を流したくないのならば、最初から対戦をしなければ良かったのです。
(「文藝春秋digital」)
司令塔不在――無謀な戦争に突き進んだ一番の原因
無謀な戦争になぜ突き進んだのか。司令塔不在、この一点で説明が尽きます。1940年11月28日に大本営政府連絡懇談会が開かれますが、この時の記録が残っています。懇談会とありますが、当時の日本の最高首脳会議です。蒋介石との交渉を再開するかどうかということを決める会議です。誰も発言しなかったそうです。近衛首相も発言しなかったそうです。司令塔不在を証明するエピソードです。しばらく沈黙があった後、唯一、陸軍興亜際政務部長の鈴木貞一氏が蒋介石を「海の者とも山の者」という表現を使って発言したそうです。蒋介石、つまり中国とのパイプを完全に切断した瞬間だったのです。それがその懇談会の決定事項となります。
この時も、現地で交渉役を担っていた田尻愛義外務省参事官は「大局を見誤ることのないように祈ります」というメッセージを日本に送っています。その心配が当たってしまいます。そして、日本の決定に対して、蔣介石は「日本は無礼、信義のない国、これ以上の交渉はしない」と言ったと言われています。ここでも過ちを繰り返します。
真のリーダーをいかに養成するか。古くて新しい問題です。官僚制の弊害で、資質ある人が埋もれてしまっています。どう掘り起こすか、どう育てるか。真剣に考える時代です。
(「Go for change」)
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