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日清戦争の時に「狂気の原型」が作られる ―— マクロ的視点のない行動がマイナスとなって跳ね返る 

  • 2024年10月17日
  • 歴史
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「今年は実は、日清戦争勃発130周年の年なんですが、知っていましたか?」

女性

「そうなんですね。言われて初めて気が付きました。学校で習って、勝って良かった程度の認識でした。日清戦争は、朝鮮の取り合いだったと言われて驚きました」

「元をただせば、最初の一歩がそちらに向いてしまったということです」

女性

「次の二歩目で元に戻せば良いと思いますけど……」

「実際には、そういう訳にはいかないことは、あなたも会社組織の一員ならば分かると思います。例えば、会社を挙げてのプロジェクトだとしたら、一歩目を踏み出せば、余程のことがない限り後戻り出来ないでしょ」

女性

「確かに、そうですね」

「同じ理屈です」

女性

「会社を挙げてのプロジェクトだとしても、マイナス要因が出始めれば、当然撤退という話になります」

「何をマイナスと考えるのかという難しい問題があります。形式論理で考えれば簡単ですが、実際の現場では、その判断が難しいのです」

女性

「それはそうだと思います。大体は判断が遅れがちになると思っています」

「日本人はそういう傾向になると思っています」

女性

「どうしてですか?」

「俯瞰力が弱いのが、農耕民族である日本人の弱点というか特徴です。全体を見渡す力が弱いため、どうしても判断がおくれがちになります」

女性

「前に、そんなことをおっしゃっていたこともありますね。ここからが本論です ↓ 表紙は「名古屋刀剣ワールド提供」です」

 日本人の最大の弱点は、俯瞰力が弱いこと

農耕民族である日本人の最大の弱点は、俯瞰力が弱いことです。その原因は、何万年にもわたる定住生活のためです。一所懸命という言葉が生まれたように、目の前の大地さえ見つめ、”緑”さえ保持していれば子々孫々にわたっての生活が可能でした。一方、大陸の遊牧民族・狩猟民族は何千年もの間、周りを見渡して生活してきました。俯瞰力がない人間や弱い人間は自然に淘汰されていったと思われます。長年の生活の差がDNAレベルの差となり、それが俯瞰力の差となって表れたのだと思います

俯瞰力が弱いがゆえに、ミクロ的視点で物事を判断する悪いクセがあります。日清戦争についても、勝ったか負けたかというレベルで判断してきたきらいがあります。現象面だけを見て各々がそれぞれの目線で自分の主観を交えて判断すれば、「群盲象を評す」状態になります。

例えば、少子化問題で各党が掲げる政策ですが、児童手当の拡充や給食費の無償化など、その軽重の違いはありますが、教育の無償化でほぼ一致しています。共産党ですら高等教育の無償化を言っています。一億総「群盲」状態になっています。仮に教育関係費をすべて無償にしたとしても少子化・人口減は止まりません。何故なら、そこが大元の原因ではないし、そんなに単純な問題ではないからです。少子化・人口減は今までこのブログの中で言ってきたように、マクロ的視点に立つことによってその原因が分かるのです。

目の前で落ちるリンゴを何回も見たとしても、リンゴだけ見ていたのでは、その原因は分かりません。宇宙的視点に立ったことによって、南半球のリンゴは下から上に落ちることに気が付いたニュートンが新たな法則発見に至ったのです。

(「バンコク日本人学校」)

 マクロ的視点のない行動がマイナスとなって跳ね返る

話を日清戦争に戻したいと思います。戦争に勝利をし、講和条約交渉に臨みます。もともとの狙いは朝鮮半島にあったのですが、勝ったついでに他の地域の領土まで要求したのです。遼東半島と台湾です。陸軍が遼東半島、海軍が台湾の割譲をそれぞれ要求したためです。当然、交渉は難航しますが、交戦状態が続いていたため、それが圧力となり、ほぼ日本側の要求を呑むかたちで交渉が妥結します。

その後、日本の遼東半島領有が国際社会の知るところとなり、ロシアはフランスとドイツを誘って同半島の返還を要求します。3国の言い分は清国の首都・北京の安全が脅かされ、朝鮮の独立が有名無実となり、結局は東アジアの平和を妨げることになるというものでした。そして、日本は3国の圧力に屈したかたちで遼東半島を返還したのです。

その後、3国はこれを奇禍として黄海周辺の地を租借というかたちで支配していくことになります。ドイツが山東半島の膠州(こうしゅう)湾、フランスが広州湾、ロシアは遼東半島の旅順や大連を租借し、中国東北部に足がかりを築きます。彼らは戦わずして権益を手に入れます。まさに、漁夫の利というのは、こういうことを言うのでしょう。全体を見ず、ミクロ的に目の前のことしか考えずに遼東半島の割譲を要求したことが、ロシアに付け入るスキを与え、対立を深めることにもなったのです。

(「okke(オッケ)」)

 日清戦争の時に「狂気の原型」が作られる

日清戦争は日本にとって最初の近代戦争でした。この戦争では従軍記者もついて各地の戦況を写真付きで具体的に報道し、国民はその記事を読んで歓呼したのです。日清戦争が終わった後、各地に戦死した兵士の慰霊碑とともに凱旋碑、戦勝記念碑、忠魂碑が建てられます。そんなこともあり、国全体が徐々に好戦的な雰囲気に包み込まれていくことになります。

こうなってくると、引き返すことが難しくなります。しかも、日本側の戦略ミスでロシアが遼東半島に橋頭堡(きょうとうほ)を築いてしまったのです。今度は朝鮮半島を挟んでロシアと対立をするという図式になったのです。日清戦争の10年後にロシアとの戦争が始まりますが、ある意味、必然的だったのです。

それはともかくとして藩閥政府は朝鮮に執拗に政治的、軍事的に介入をし続け、その結果李王朝は親清派と親日派に分かれて対立するなど、国内は混乱します。挙句の果てに、東学党の乱(甲午農民戦争/1894)が起きます。農民軍は日本軍や朝鮮軍と戦闘を繰り広げていますので、彼らの不満は日本の介入と朝鮮政府の対応に向けられたものでした。日本の介入の最たるものは閔妃暗殺事件(1895)です。朝鮮の王妃暗殺事件ですが、「閔妃は日本人によって殺害され、遺体は庭園で焼却された」(角田房子『閔妃暗殺』)という点では日韓両国の資料で一致しているとのことです。悪感情の一因となっています。

昭和に入って無謀な戦争に突き進んだようなことが言われますが、マスコミは「戦争は最大教育」(「東京朝日」1894.8.2日付)と言って煽り、国定教科書で日清戦争は正義の戦争と教え込み、戦死を美徳とする考え方を広めるなど、実は日清戦争の時にすでに「狂気の原型」が作られていたのです。そして、これらのことについて、きちんとした総括もなされていませんし、隣国への謝罪もなされていません。彼らの悪感情の一因となっています。実は、この総括と謝罪をじっと待っている国がアメリカだと思っています。もし、日本がそれに気付いて行動を起こせば、彼らは100%信頼を寄せるでしょう。

(「熊野町/戦勝記念碑」)

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