「隣国とどう付き合うのか、日本にとって重要なテーマだと思います」
「隣国ですか? 具体的には中国と韓国が頭に浮かぶのですが、どちらを考えれば良いですか?」
「今日は、中国を考えることにしましょう。「歴史に学ぶ」必要がありますので、国交断絶の時代を検証する必要があると考えます」
「高校時代にゴロ合わせで覚えました。「白紙(894)にする遣唐使」ですよね」
「今の受験教育だとそこで終わってしまっていますが、どうして遣唐使を廃止にして、その後中国とはなぜ国交を結ばなかったのかということが重要です」
「教科書には、その後すぐに唐が滅亡したとあります」
「問題なのは、その後ですよね。交易関係を重視していたならば、日中関係を止める必要がありませんからね」
「お互い珍しい文物を交換できますからね」
「それらはお互い高い値段で国内で取引されたと考えられますからね。そういう状況があったにも関わらず、「中国中心の外交関係を避けるために、宋とは正式な国交を開こうとはしなかった」(『詳説日本史』山川出版社)とあります」
「中国中心史観に与(くみ)したくないという考え方に基づいていたのでしょうね」
「そうですね。教科書はさらっと書いていますが、実は国と国との関係に於いて一番難しいのは、その関係を終わらせようとする時です」
「人間と同じですね」
「だから、付き合いの初めは簡単なんです。お互い祝福していれば良いからです。それを功績と言う人がいますが、そんなものは功績に値しません」
「やはり、難しいのは、別れの時ですね。そういう歌もありますからね」
「出会いは余りドラマになりません。こじれないように奇麗に別れるのが、一番難しいのです」
「何か、今の言葉、実感がこもっていましたね」
「とにかく(コホン)、そろそろどうやって隣の大国と別れるか、戦略的に考える時代となりました」
「20年計画で考えるということでしょうか?」
「戦略を立てる、日本人が最も弱い部分ですね。ここからが本論です ↓」
日中平和友好条約の破棄を考える時代
隣国の中国とどのように付き合うのか、これは日本にとって、もしかしたら、永遠のテーマになるかもしれません。その位、重く重要なテーマであることを深く自覚した方が良いでしょう。何故なのか。日本の歴史を調べると、先人たちは常に中国とどう向き合うのか、どのような距離を取るべきなのかということを模索していたからです。
現在日本は中国と日中平和友好条約を結んでいますが、内実が伴わなくなっています。平和友好条約というのは、簡単に言うと「僕たち親友だよ」と約束を交わしたようなものです。ところが、今の中国が日本の尖閣に対して行っているのは、侵略まがいの行為です。それを連日のように行っています。
そういう状況を見ると、日中平和友好条約をどのようなタイミングで破棄していくのか、そんなことを視野に入れて研究をする時期になったと思います。日本の国土には、幾千年もの歴史が織りこまれていますので、歴史書を紐解けば、様々な解答が得られます。
(提供「セレプロ」)
遣唐使廃止の時代を改めて検証する
遣唐使の中止は894年でした。菅原道真の建議によって中止となったのですか、彼がそのような建議をしたのは唐の衰退とそれに伴う様々な危険の増大というのが理由です。ただ、それは表向きの理由だと思います。というのは、その後中国大陸は宋によって統一されることになりますが、この王朝と正式な国交を開かなかったからです。
一連の行動には、何か深い理由があったと思います。それを一言で言えば、「違和感」でしょう。遣隋使、遣唐使などを通じて中国の様々な文物が日本に紹介されます。留学生もいたので、彼らからの情報もあったと思います。そういったものをまとめると、大陸の統治の仕組みや考え方、庶民の暮らしぶりなどが分かってきます。中国の実像が徐々にはっきりし始めたため、そこに先人たちは「違和感」を持つようになります。それが、その後の長い大陸との断交の理由となります。ちょうど、今の韓国に対して我々が「違和感」をもつようなものです。
(「yayoigaoka-seminer.com」)
ムラ社会の考え方、国家の統治のあり方が日本と大きく違う――「違和感」の正体
国家の考え方が違う。日本の国家は、家族制度を基礎に、その延長として考えられたものです。漢字を見れば、その痕跡が遺っています。「国」と「家」を組み合わせた熟語を今でも使っていますし、「公」は「おおやけ(大宅)」、つまり大きな家を表しています。「公」の上の「八」は家の屋根を表しています。
それに対して「中国は古代のきわめて早い時期に、ある一定の段階を経過して、高度官僚社会を形成し、戦争がもたらす長期にわたる軍事緊張を絶え間なく媒介としながら、小集団のもつ共同性を否定して、統一的に強制編成を行った結果として現れたものが、中国の専制国家体制である」(西尾幹二『国民の歴史』産経新聞社、1999年/211ページ)と言います。
「小集団のもつ共同性を否定して」という表現が分かりにくいかもしれませんが、日本のムラは村落社会であり自治的な機能を持っていたのに対して、中国のムラは「特定目的のために人々が急きょ集まった団体である。その構造は影響力のある個人を中心にして、人々が非常に不安定に集まった集団であり、中国社会にはそういう集団しか存在していないといえるであろう」(西尾幹二 前掲書/209ページ)と指摘をします。
日本の村落社会の伝統は、自治会、町内会の組織やそれらが主催する会合や行事にその痕跡を見ることが出来ます。かつては村人たちが寄り合って、入会地の管理、消防、道路や堤防の補修、改修などを行い、その労をねぎらうと同時に神様に感謝する行事として祭りが地域ごとに催されたのです。そして、共同性を維持するために自分たちでルールを作り、それを守らない者に対しては村八分ということで仲間から外したのです。
ところが、中国には、そういう自治的なムラ社会はありません。共同で行うのは、農作物の窃盗監視くらいのものだそうです。道路の補修は気が付いた人が直せば良いという考えです。日本にはよそ者という言葉がありますが、中国にはありません。その地域に住み始めれば、その瞬間からその地域の一員となります。挨拶まわりも必要ないのです。
そういった中国のムラ社会を統治するために、皇帝を頂点とする官僚組織が作られ、人民を監視するためのネットワークが全国的に張り巡らされたのです。中国には全国至る所に監視カメラが設置されています。それを設置する際、彼らの中に何の問題意識も起きなかったのは、歴史的にそのような統治が行われてきたからです。
「漢の時代から二千二百年間、あの大陸はほとんど何も変わっていない」(前掲書、214ページ)と西尾氏は言います。人間に対する捉え方、ムラ社会の考え方、国家の統治のあり方など日本と中国では随分違います。それを先人たちは「違和感」として受け止めたのでしょう。
同じような価値観を共有している者とは友人として付き合うことが出来ます。そうではない人と付き合っても、話が合わないし窮屈です。国家と国家の付き合いも同じです。何でもかんでも相手の求めに応じて国交を結べば良いというものではありません。友達の選択を間違えてしまったと思ったならば、別れることを考えれば良いでしょう。ただ、変な別れ方をして恨まれて危害を加えられたら大変です。
別れるタイミングと相手を納得させる理由が必要です。経済的に関わり合っているので、なかなか大変ですが、それを考え始める時期にきたことは確かです。
読んでいただき、ありがとうございました。
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