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憲法十七条を単なる歴史的な史実にしないために―― 法的、政治的な意義を探る

女性

「日本が今まで制定した3つの憲法を、統一的に考えるべきという指摘には驚きました」

「ああ、昨日のブロクの話ですね。そんなことは誰も言ったことはありませんからね」

女性

「確かに、日本は一つの王朝と考えて、ずっと2000有余年繋がっていることは誰もが認めるところですものね」

「周りの国は気付いていても、何も言いませんからね。自分でアピールする必要があります」

女性

「そうですよね。確かに、長い歴史の中で定められた憲法なので、その根底に流れているものを探る必要がありますよね。逆に、どうして今まで、そういう考えに至らなかったのでしょうか?」

「簡単に言えば、自分たちのテリトリーだけで考えていたからです」

女性

「テリトリーというのは?」

「憲法十七条は歴史分野の話、憲法とは違うという発想でしょうね」

女性

「時代もかなり離れているので、憲法でも違う憲法だと言う人もいるんじゃあないですか?」

「実は、そういうことを指摘した憲法学者もいます。渋谷秀樹氏は、権利や自由、権力分立という考えがないので「真の意味での憲法」とは言えないと言っています」

女性

「それに対して、どういうお考えですか?」

「「権利や自由」「権力分立」という概念は18世紀以降に西欧で確立した概念なので時代的に無理な注文です。また、何を規準にして「真」とするかは難しい問題で、その国の為政者が作った憲法であれば、その時点で真の憲法だと考えます」

女性

「何となく、西洋史観で物事を見ているような感じがしますものね」

「憲法についての日本の伝統的な考え方があるのですが、憲法学会において完全に無視されています。そのことの方が問題だと思っています」

女性

「ここからが本論です  ↓」

 

 国の行く末に危機感をもったことが、憲法十七条制定の動機

飛鳥の時代にあって聖徳太子(574~622)は「明確な国家意識をもっていた」(渡部昇一『日本の歴史①古代編』)と評価されている人物です彼は「華夷(い)体制」に基づく朝貢外交ではなく、中国との対等外交の途を切り拓こうとした人物ということもあり、中国寄りの史観をもつ人達から何かと理屈をつけて教科書から消し去ろうとされたり、厩戸皇子とすべきなどと言われたりと、何かと攻撃を受けている人物です。

ただ、十七条憲法そのものが遺っていますので、その中身を検討したいと思います。

第1条に「和を以て貴し」という有名な言葉があります。実は、この第1条の「和」が憲法十七条のテーマであり、聖徳太子の問題意識がここにあったことが分かります。そして、この「和」を冒頭にもってきたということは、これとは逆の現象が起きていたということが分かります。つまり、国内外の不安定要因を何とかしたいという思いがあったのです

国外の不安定要因は、大陸に随という統一王朝が成立し、半島では日本の友好国であった百済が新羅や高句麗と対立するという事態です。国内では、物部氏が蘇我氏に滅ぼされ(丁未(ていび)の乱/587年)、その蘇我氏が天皇家を脅かす位の勢いをもつようになり、その延長線で後崇峻天皇暗殺事件(592年)が起きています。彼の苦悩と危機感が、憲法十七条の「和」に反映しているのです。

さらにいくつか憲法十七条逆読みをすると、仕事の手抜きをしたり(7条、8条)、勝手に税金をとって人を罰したり(5条、11条、12条)、出世をする人を妬んだり(14条)、民を勝手な命令で働かせる(16条)など、かなり乱れた状態であったことが分かります。

官僚の頽廃、さらには士気の低下は、国の崩壊に繋がります現状と通じるものがあるかもしれません。国家公務員の志望者が減り、厚労省でクラスターが発生するなど綱紀が乱れています。太子が現代にいたとしたら、何を考えるでしょうか。

(「kousin242.sakura.ne.jp」)

 聖徳太子の3つの狙い

危機感をもった太子が掲げた政策方針は3つです。1つは、冠位十二階という人材登用の制度を創設し、身分ではなく能力によって人材を登用できる途を開きます。(日本の現代の公務員の世界は、未だに年功序列の世界です)。

2つ目が、隋との対等外交政策です「日出の天子、書を日没する處の天子」と書かれた文書を当時の皇帝の煬帝に送ったことが「隋書」に書かれています。太子の真の狙いは、対中国というより、朝鮮半島ではなかったか、と思っています。半島では高句麗、新羅、百済が覇権争いをし、そこに日本が一枚噛んでいるような状況だったので、隋と対等の位置に立つことができれば、朝鮮半島の国々に対して有利なポジションをとることができるという計算があったと思われます。太子は戦略家であったことが分かります

3つ目は、大王(天皇)中心主義の導入です。遣隋使の小野妹子に持たせた国書の書き出しは「東の天皇、敬って西の皇帝…」(『日本書紀』/傍点筆者)というものでした。当時はまだ大王(天皇)の権威も権力も定まっていない時代です。隋という大国に認められれば、一種の箔(はく)が付き、国内統治にも良い影響をもたらすだろうという判断があったと思われます。

天皇という名前が定着するのは天武天皇の頃なので、100年位前のことです。呼び名とともに、天皇のもとで国としてまとまっていくという考え方が後の時代に受け継がれていきます。国難があった場合は、みんなで乗り越えようという気持ちが「和」という言葉に凝縮されています。そして、国の中心軸に大王(天皇)を位置付け、家族主義的な考え方で国をまとめるという考え方が方針として確立していきます

(「oua-prototype.ecreators.com.au」)

 「家族主義的国家観」を打ち立てる

家族主義的国家観とも言うべき考えをもっていたことが何故分かるのかと言えば「上和(かみやわら)ぎ下睦(むつ)びて、事(こと)を論(あげつらう)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず」(第1条)という言葉が遺っているからです。大意は、上の者も下の者もお互い親睦の気持ちをもって論ずれば、自然にうまく事は収まる、です。また、「共にこれ凡夫」「相共に賢愚なる」(第10条)というように、「共に」という言葉を使って、同じ共同体に生きる人間ということで民衆を捉えていることが分かります。

そして最後に、王(天皇)を国家の中心に据え、それに対する忠を説き、国としてのまとまり、つまり「和」を訴えています。さらに「賢に遇(あ)いておのずから寛(ゆたか)なり」(賢者が上に立てば国は自然と豊かになり、治まっていく)と、王(天皇)も含め上に立つ者も努力して賢者になることを説いています。そのような戒めの言葉も忘れていません。

西欧の国づくりは、個人を中心に考えられたのですが、日本は家族を中心に考えていきます。それは、「国家」、「嫁」、「家庭」、「稼ぎ」など家がついた漢字や熟語を見れば分かります。

日本独特の国づくりの考え方が、憲法十七条から読み取ることができるのです

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