「菅新総理が人口減を止めることは出来ない、とさらっとおっしゃったので、ちょっとショックを受けています」
「政治家が諦めてどうするのかと思います。国立社会保障・人口問題研究所の予測では、2060年に出生数48万人、総人口8674万人、2110年に出生数24万人、総人口4300万人という驚くべき数字が発表されています」
「すごい減り方ですね」
「このまま何もしなければ、こうなるということです」
「2110年は、今から90年後ですか。私はこの世にいないですね」
「人口問題はそういう捉え方ではなく、自分の問題として考えて欲しいと思います。あなた自身はいなくても、あなたの血を分けた人が日本に住んでいるはずです」
「どうでも良いとは思っていません。ただ、与えられたテーマが大きいので、どう格闘していいのか、総理大臣でもよく分からないということではないでしょうか」
「その位難問なので、やり甲斐があると思わなければいけません。そして、自分でできる範囲で努力するということではないでしょうか」
「できる範囲の努力とは、何ですか?」
「周りに適齢期の男女がいれば少し世話を焼いて、上手くコミュニケーションがとれるように仲立ちをしてあげたらどうですか?」
「昔は、そういったお節介おばさんが地域に何人かいましたけどね」
「今は、地域の人間関係が見えなくなっていますからね。難しいですよね。そして、組織的な動きを考える必要があります」
「組織的……ですか?」
「組織的、継続的、独創的、これが人口減解消のキーワードだと思っています」
「ここからが本論です ↓」
目次
教育基本法を改正して以降、具体的な策が講じられていない
2006年に教育基本法が改正されました。ただ、法律が作られたからといって、それに合わせて現実が動く訳ではありません。条文を作ったならば、今度は行政を動かす必要があります。作って一安心して、そのままにしている感が強いのが改正教育基本法です。
1947年に制定されたかつての教育基本法が、教育界の憲法のような存在であったため、その改正において様々な方面から反対の声が上がりました。それにも関わらず改正をしたのですから、そこには新たに理想とすべき教育のあり方・あり様があったと思われます。具体的な政策として実現して欲しいものがいくつかありますが、その中の一つである幼保一元化の問題を取り上げてみたいと思います。
幼児教育の問題を解決する必要あり
過去には人口増で悩んでいた――人口問題は長きスパンで考える必要あり
河合雅司氏が書かれた『日本の少子化 百年の迷走』(新潮選書.2015年)という書があります。その帯に「今日の深刻な少子化は、戦後GHQが仕掛けたもう一つの日米戦だった!」とあります。なるほど、そういう考えもありかなと思い、この書を手に取りました。著者の河合雅司氏は、産経新聞論説委員、大正大学客員教授、人口政策が専門の方です。
日本の人口問題を俯瞰して見るために、明治以降の人口動態を国際情勢の動きの中で捉え、その原因を明らかにしようとしています。客観的なデータや証言も豊富に使われており、説得性の高い内容になっていて、お薦めの書です。
社会で起きている現象はすべて原因があり、起こるべくして起きています。だから、日本の人口減の問題も、何らかの原因がそこにあるはずです。その辺りについて、河合雅司氏の著書の内容をご紹介しながら考えてみたいと思います。
明治維新期から昭和初期にかけては、人口が倍増している
1872 (明治5)年 約3500万人
1894 (明治27)年 約4200万人
1904 (明治37)年 約4700万人
1920 (大正9)年 約5600万人
1935 (昭和10)年 約7000万人
大変な勢いで人口が増えたことが分かります。明治維新は世界の奇跡と言われるように、急速に日本は近代国家に変貌していきます。日清戦争、日露戦争の頃に産業革命も進展し、資本主義経済が発達、それに伴って急激な都市化現象も起こります。
実は、この頃は日本は増える人口で悩んでいたのです。現在と全く逆です。
1918年6月17日の大阪毎日新聞は「米国の如き、露国の如き、人口稀薄、土地広大なる処においては、人口の増加は寧ろ大に歓迎すべくして敢(あえ)て憂ふるに足らずと雖も、我邦(わがくに)の如き狭小の地域を有するに過ぎざるものに至りては、人口問題の楽観すべからざる」と言っています。
広大な面積を有している国は人口増加は大歓迎でしょうが、日本のような狭い面積の国では人口増は心配の種という指摘です。この記事が出た1か月後に有名な「米騒動」が起きます。この騒動は富山県の主婦の起こした騒動が全国に広がったもので、「東京・大阪をはじめ全国38市・153町・177村、約70万人を巻き込む大騒擾(そうじょう)となった」(山川日本史)のですが、その遠因には食料不足問題があったのです。
食料不足問題解決のための移民政策
戦前の日本は今と違い、貧しかったのです。ほぼ、開国と同時期に働く場所と食料を求めて集団移民をします。「日本の海外集団移民の歴史というのは、案外古く、明治元年にあたる1868年にグアムやハワイに渡り、サトウキビ畑で働いたのが始まり」(河合雅司 前掲書)とされています。
移民政策は人口増解消、食料不足解消、さらには移民たちが現地で働く姿を見せることは文明国日本をアピールすることになると、良いことばかりということで明治政府も後押しをしたのです。そういうこともあり、日本人移民は、グアムやハワイ、南北アメリカ、少し遅れて中国大陸に渡ったのです。
ところが、現地の人たちの受け止め方は全く違っていたのです。低賃金でも黙々と働く日本人移民は現地の労働者を駆逐し、集団で生活をして現地の人に溶け込もうとしない、聖なる日曜日でも労働をしているといった姿に感情的に反発を受けます。さらに、日本の国自体は清やロシアとの戦争に勝っているので、戦勝国の国民がどうして移民としてやって来るのか訳が分からなかったようです。つまり、戦争に勝つためには軍事力がなければならず、それを支えるのは経済力さらには多くの軍人をはじめとする人的資源が必要です。さらに、当時は戦争に勝つと2つの「良いこと」がありました。賠償金と領土を分捕ることができたのです。
理由がよく分からない時、人は恐怖を感じるものです。そのうち疑心暗鬼となり、日本という国は人間をまずは送り込んできて、様子を見てから戦争を仕掛けてくるのではないかと思い始めたのではないでしょうか。白人たちは、支配したい地に宣教師を送り込ませて侵略できる国か、侵略によって利益を得ることができるかといった様子を見させた歴史をもっています。日本人移民と宣教師が二重映しに見えたのでしょう。ちょうど、今の中国のように日本が見えたのだと思います。排日法が制定され、アメリカ、さらにはカナダで激しい排日運動が起こります。
満蒙開拓団が組織されるようになる
日本移民たちがそのようなことで行き場を失います。そこで目をつけたのが、中国大陸だったのです。時代は1930年頃です。
この頃に、5.15事件(1932年)、2.26事件(1936年)が起きています。これらは青年将校が中心となって起こした軍事クーデターですが、これを機に広田弘毅内閣が誕生すると、軍部の発言権が一層強くなっていきます。
満州への日本人移民を強行に反対していた高橋是清蔵相が暗殺された(2.26事件)ということで歯止めがかからなくなったのです。「1936(昭和11)年5月11日には、関東軍司令部で開かれた会議において、満州国にある未耕地1800万町歩に100万家族、計500万人を20年間かけて移民として送り出す方針が決定された」(河合雅司 前掲書)のです。
政権が軍部に移り、そこが移民政策を実行しようとしたので、移民を先兵として使う侵略行為とアメリカは捉えたのでしょう。この頃から、日本に対する包囲網を他のヨーロッパ諸国と連携して形成し始めることになります。日本の論理をアメリカは理解していなかったし、日本もアメリカの論理を理解しようとしなかったのです。お互いが不信感を募らせて、ついには激突することになっていきます。
その激突の激しさと顛末はご承知の通りです。敗戦の後、アメリカは日本を滅亡させる作戦を立てます。武力ですべて消滅させるのは、野蛮なやり方です。文明国らしく長い時間をかけてゆっくり地上から無くなるようにするシナリオを作ります。そのシナリオの中に、日本国憲法という亡国憲法の制定とともに「人口減プログラム」が入っていたのです。この内容については、明日のブログで紹介したいと思います。
読んでいただき、 ありがとうございました。
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