「今日、スポーツジムで走りながら国会での代表質問をテレビ中継で観ていたのですが、質問に名を借りた政治パフォーマンスという感じでした。少し呆れましたね」
「何党ですか?」
「公明党の石井氏ですね。最初の25分間延々とオミクロン株のことを言っていました」
「よく、そんなに言うことがありますね」
「要するに、オミクロン株が広がった状況とそれへの対応、それに対して公明党が努力したという話を交えながら延々と約25分間、公明党という言葉を5回は言っていたと思います。公明党は自民党を支え…ということも言っていました。次の質問が、雇用調整助成金だったのですが、それを3分間聞いたところで1.5km走が終わりました」
「ああ、そうですか。ご苦労様でした。選挙演説のようだったということですね」
「昨日の立憲の泉氏の代表質問といい、今回の石井氏の代表質問といい、大きな勘違いをしているのではないかと思っています」
「大きな勘違い、というのは?」
「代表質問というのは、先日の首相の施政方針演説に対して行うものなのです。施政方針演説というのは、あくまでも方向性が示されただけなので、具体的な提案はそれに沿って各党の代表者が質問をしつつ、自分の政党の考えを述べる必要があります」
「『新しい資本主義』の中身が分からないという意見が出ていましたが、分からなければ、それを聞けば良いのですね」
「この前のブログで社長の慰安旅行の提案を例え話として紹介しましたが、社長は慰安旅行を行うという方向性を出したので、具体的な中身については他の社員でアイデイアを出して膨らませる必要があるのです。国会の場合は、それぞれの政党が具体策を提示する必要があるのです」
「慰安旅行をするというのが基本なので、そこを崩してはいけないという話でしたよね」
「そこを崩すと議論そのものが成り立たなくなります。要するに、議題として出したものを否定する行為だからです」
「議題が議題ではなくなるということですね」
「今回も立憲の泉氏の質問の中に混ぜっ返すような質問がありました。沖縄の普天間基地の移設問題です。国会のあの場で言われても、どうにもならないですよね。また、各党ともコロナに関連する質問が目立ちましたが、専門家と協議しながら政府が対応をしているので、任せるしかないと思います」
「任せようとはせずに、何か意見を言っているのですね」
「国民民社党の玉木氏はイギリスの取り組みと比較しながら日本の対応について言っていました」
「それも含めて、政府の対応に期待するしかないということでしょうか」
「何もしていなければ対応しろと言う必要がありますが、対応している人に対して何か注文をつけるのは失礼だと思います」
「そういうことを含めて、ここからが本論です ↓」
政治家が経済の問題について踏み込むのはタブー
視点が狂ったまま議論をしても、決して良いアイデイアも結論も出ません。軸が崩れているバッターのようなものです。それでも当たることはたまにはあるかもしれませんが、コンスタントに結果を出すことは難しいでしょう。
アベノミクスから、政治家が経済の問題について踏み込む「クセ」がついた感じがします。経済は「生き物」なので、政治家は経済活動が自由闊達に行われる環境を整備するのが仕事です。それを忘れて、「生き物」の経済に進む方向を指示しようとするのは間違いの元になります。「生き物」がどのように生きるかは、その生き物が主体的に決めることであって、他者が仮に指図したとしてもその通りにはなりません。「新しい資本主義」という名の下に、その自由度を奪おうとしています。今の資本主義の本質は、自由市場経済です。自由を人為によって抑制すれば、必ず衰退が待っています。「経済再生の要は、『新しい資本主義』の実現です」(施政方針演説)と言っていますが、これは違います。
(「阪南大学」)
人権は個人を基準に考え、経済は家庭を単位に考える
人権は個人を基準に考え、経済は家庭を単位に考える――これが基本です。どういうことか。経済の三主体ということで、政府、企業、家計と経済の授業か何かで習ったと思います。経済的な問題を考える場合は、個人ではなく、あくまでも家計、つまり家庭で考えなさいということです。
国民党の玉木氏が代表質問の際に、現金給付において所得制限を設けるのはおかしいと言っていました。彼の理屈は、子供の中にもらえる子ともらえない子が出てしまう、というものでした。人権を考える場合は個人を単位として考えるのが原則ですが、経済の問題は家計を基準とするのが原則なので、決しておかしくはないのです。子供を通して、親権者に渡しているからです。
最近の話題で言うと、正規雇用と非正規雇用の問題、そして中間層という言葉です。これらも、経済問題なので、家計を単位として考える必要があります。両親ともに非正規雇用で子供が3人、両親の勤め先からの収入は合わせて300万円位。生活は苦しいかと思いきや、実は親から譲り受けた土地を駐車場として貸していてそれだけで1000万円くらいの収入があるというケースも当然あります。この1000万円は事業所得になりますが、勤労所得だけを見る、あるいは雇用条件だけを見て判断すると狂ってくるということです。
本人は正規雇用が希望だが、会社はそうはさせてくれない。その問題は、企業の雇用の問題なので、別次元の問題となります。
(「www.meti.go.jp)
経済的格差の問題は、家計と時間の軸という2つのベクトルで考える必要あり
経済的格差の問題は、家計と時間の軸という2つのベクトルで考える必要があります。どういうことか。日本は財産の相続が認められている国ですので、仮に現在貧困であっても、努力すれば子や孫の代には富裕層になるかもしれないということです。
というか、相続を認めているということは、単純に現在の経済的資産だけで考えるのではなく、将来を見据えた上で考えろということです。仮に現在経済的な困窮状態にあり、なかなか抜け出せなかったけれど、子供が事業を興して成功したので養ってもらえるようになった、ということもあるでしょう。宝くじによって貧困から脱出したということがあるかもしれません。その逆も当然あります。オーナー社長であったが、会社が倒産した、巨額の債務を背負ってしまったということもあるでしょう。
日本は家制度を伝統的に守ってきた国です。お家再興という言葉があります。先祖から受け継いだものを大事にしていけば、最低限の生活は出来るはずだし、逆に子孫に辛い思いをさせないように生活できるような財産を遺しておくということです。その家が行き詰ってしまったならば、今度は一族が助ける。そういう考え方で経済的に支え合ってきたのです。政府が経済的支援を考える場合は、法制度をきちんと作った上で、行うべきでしょう。何事も思いつきで行わない、国の伝統的な考え方を踏まえて判断するということだと思います。
経済は流動します。動態的な視点で対応しないと、結果的に不平等が生じ、その不満が社会の中に沈殿することがあります。単純に、思い付き的に10万円配ればそれで由という安易な考え方をもたないで欲しいと思います。
(「高校数学.net」)
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