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明治維新という名の悲劇 ―― 明治維新は新しい時代への幸せな門出とはならなかった / 「五箇条の御誓文」で示された理念と真逆の実態

  • 2025年9月16日
  • 2025年9月16日
  • 歴史
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「高校社会科に「歴史総合」という科目が導入され、2025年にはセンター試験も実施されました」

女性

「何か問題があるのですか?」

「歴史総合は日本史と西洋史の総合ということですが、全く違った自然観、国家観をもった歩みをしてきた両者を何で「総合」できるのかという根本的な問題があります」

女性

「よくおしゃっておられる農耕民族と狩猟民族からくる違いですか?」

「日本は自然の中からすべてが生まれたと考える自然宗教の国ですが、彼らは神が自然を創造したと考えます。日本は森と木の文化の国ですが、彼らはコンクリート文化の国です」

女性

「見事に対照的なんですね。ただ、辿ってきた歴史は同じようなものと考えても良いのではないかと思います」

「マルクスの唯物史観では、古代奴隷制→中世封建制→(市民革命)→近代民主制という公式の中に当てはめて考えようとします。これが歴史学会の「天動説」を形成しています」

女性

「さしずめ、地動説の立場から考えなければいけないということですね」

「最初に公式ありきではなく、史実を客観的に見て、その中から因果関係を見出していくことが重要だと考えています。地動説というより、地に足を付けて考えるということです」

女性

「そういう立場から明治維新を考えてみようということですね」

「これを「市民革命」と捉え、意義ある動きとして肯定する意見が多いです。歴史教科書もそのような観点から書かれていますが、事実に基づいて検証したいということです」

女性

「ここからが本論です ↓表紙は原田伊織氏の著書(SB新書)の表紙です」

 明治維新は新しい時代への幸せな門出とはならなかった

作家で数学者の藤原正彦氏が月刊文藝春秋(2023年12月号)の中で「明治維新は新しい時代への幸せな門出とはならなかった」と述べつつ「薩長という貧しい藩の無学の人々がなぜ明治維新という革命をなしとげ、明治時代をも牛耳ることができたのかは私にとって不思議」と書いている。

誰もが不思議に思う位、簡単に政権が転がり込んできたのが実は明治維新だったのです。司馬遼太郎氏は最後の将軍の徳川慶喜が政権を放り投げたからという趣旨のことを書いていますし、歴史学者の三上博氏は原因らしい原因が見当たらないと言っています。

戊辰戦争の過程の中で政権移譲が起きた事は確かなので、そこに注目すると1つは、薩摩藩がキャスティングボードを握った事が分かります。2つ目は、五箇条の御誓文が出されたことが「流れ」を呼び寄せたと思います。五箇条の御誓文は戊辰戦争の最中(さなか)に出されます。その理由は、戊辰戦争を有利に運ぶためです。バックに朝廷がついたことを天下国家に示すという役割があったのです。明治天皇は当時15歳の青年です。当然、仕掛け人がいて、その作戦は見事に当たりました。幕府側にプレッシャーとなりました。その約1か月後に江戸城無血開城が実現したのです。

(「日本の古本屋」)

 政権構想のないまま薩長同盟が結ばれる

薩摩藩の行動が奇怪ですが、そこには藩主の島津久光と西郷、大久保といった実力者たちとの対立が影響しています。久光は、あくまで「公武合体」路線を重視し、朝廷を後ろ盾にしての幕政改革を唱えていたからです。そんなことから、禁門の変では京都守護職の会津藩と協力して長州藩を撃破しています。

一方、西郷、大久保は幕府の無力を見限り、長州と手を組んで薩摩主導の新秩序を築くべきと考えるようになったのです。その後、土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎を介して薩摩の西郷隆盛、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)の会談の結果、倒幕を目標とする薩長同盟が結ばれます。その際に「薩長同盟八カ条」なる文書を取り交わしたとされています。これは、坂本龍馬が中心となって書き起こしたと伝えられるものです。史料的には龍馬の手紙に残る形で伝わっており、薩摩藩と長州藩の軍事協力を定めた内容になっています。

薩長同盟八カ条の内容は以下の通りです。①長州藩が幕府と戦うことになった場合、薩摩藩は全力で支援。②薩摩藩は朝廷に働きかけ、長州藩の「朝敵」扱いを取り消すよう尽力。③もし幕府が朝廷に対して長州征伐を再び求めた場合、薩摩藩は断固反対する。④長州藩が兵を挙げた際には、薩摩藩は兵糧・軍需物資の補給に協力する。⑤長州藩が兵を挙げた際には、薩摩藩は軍事行動の上でも援軍を送る。⑥長州藩が兵を挙げた際には、薩摩藩は軍事行動の上でも援軍を送るなどです。ただ、レベル的には総じて高くはありません。高校生の作文レベルです。協力して幕府と戦うことを確認しただけであり、政権構想は入っていませんでした。

(「戦国ヒストリー」)

 「五箇条の御誓文」で示された理念と真逆の実態

政権構想に魅かれて組んだ同盟ではなく、単に今の幕府ではダメだという程度の思いで結ばれた軍事同盟だったのです。この短絡的な動機によって重要なことが決められてしまったのです。なぜ、このようなことが軽々に行われたのかという素朴な疑問に対して、藤原正彦氏は薩摩藩での教養や文化を廃する気風を挙げています。

薩摩藩は郷中教育で知られていますが、要するに年長者が年少者を教えるというものです。他藩のように先生がいて、学問を教えるのではなく、年長者が教えるので教える内容もレベルも高度なものはありません。しかも勉学に使う時間は午前中だけです。午後は武芸やみんなで遊ぶ時間です。教養や文化を軽視した藩の連中が政権を執ったのです。日本の不幸は、そんなことから始まりました。

その後、戊辰戦争の最中に「五箇条の御誓文」が出されますが、書いてあることとはまったく違う政策が実行されることになります。以下に表で示します。

 

項目 五箇条の御誓文 実態
政治参加 「広く会議を興し、万機公論に決すべし ごく少数の薩長下級武士による独裁政権。広範な議論の場は設けられず。
人材登用 「上下心を一にして、盛んに経綸を行うべし」(身分や家柄を超えて有能な人材を登用) 薩長藩閥出身者を中心に要職を独占。他藩は冷遇された。会津藩は領地替えをさせられた。
外交方針 「智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし」 西洋制度を模倣。藩閥指導者の専権で行われ、国民的議論はなかった。
国民生活 「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし」(平等な社会を志向) 平等理念より藩閥の利権維持が優先された。本百姓の割合が減り、小作農が増え、海外脱出する人が続出する。
統合の原理 「和をもって国を治める」 戊辰戦争で反対勢力を武力で鎮圧。会津・奥羽・蝦夷などは徹底的に排除され、融和は行われなかった。

 戦前の政府は移民という言葉で説明していますが、殆んど逃げるように日本を脱出しています。中国ではこの10年間に約100万人が中国から亡命したと言われていますが、割合的には1%もいっていません。戦前の日本の移民は3.5~5%です。余りにも多い日本人が渡航してくるので、ブラジルやアメリカでは問題になり排斥運動まで起きたのは有名な話です。移民ではなく、正確に言うと逃亡民です。それだけ多くの人が戦前の日本の政治に絶望感を抱いていたということが数字から分かります。

(「ギアリンクス」)

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