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明治維新の探究 (1) ―— 江戸期に学問と文化の華が咲く / 「関ケ原以来の怨念」が明治維新の原動力!?

  • 2024年10月5日
  • 歴史
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女性

「前回のUSスチールの買収問題の話の中で、明治維新の話が出てきたのですが、私の認識と少し違っていたので驚きました」

「どのように思っていたのですか?」

女性

「単純に明治維新を期に近代化日本に舵を切ったと思っていました」

「近代化というのは西洋化という意味です。日本がそれに向けて舵を切ったことは確かです。ただ、それは古き良き時代の日本との決別を意味していました。そして、近代化は遅かれ早かれ成し遂げることができる課題なので、殊更(ことさら)評価することでもないと思います」

女性

「そういう論法であれば、欧米の植民地になるのを防いだというのも、同じですね」

「江戸時代の各藩はすべて武装していたので、簡単には植民地に出来なかったと思いますけどね」

女性

「最新兵器を造る技術の点では、太刀打ち出来なかったのではないでしょうか?」

「長崎の出島を介して、ヨーロッパの先端技術を意識的に移入していたのです。だから黒船来航から3年以内に同じような蒸気船を造った藩が3つもあったのです。薩摩藩、佐賀藩、宇和島藩の3つです」

女性

「えっ、凄いですね」

「オランダを通して、西洋の学問・技術を採り入れていたことが分かっています。他国との交流を閉ざしていた訳ではありません。長崎と対馬を通して、オランダ、中国、朝鮮と交易をしていたのです。歴史家の中には鎖国という言葉を使うのは止めましょうと言う人もいる位です」

女性

「ここからが本論です ↓」

 江戸期に学問と文化の華が咲く

「世界史的にみても人類にとって類稀(たぐいまれ)な固有の特性をもつ『江戸システム』を、関ケ原以来の怨念と政治的私欲に突き動かされて」(原田伊織『明治維新という過ち』毎日ワンズ、2015)敢行されたのが明治維新と原田氏は言います。

江戸期は学問と文化の華が咲いた平和の時代です。文化が成立するためには、生活の安定、心の安定、共同体の成立といった3つの条件が揃う必要があります。心の安定と言うのは、自由な創作活動が許される安心感がある社会という意味です。江戸期に成立した文化を一覧にしてみました。高校山川日本史の教科書を参照して作りましたが、これだけの文化が成立したことを改めて認識して欲しいと思います。

寛永期文化 霊廟建築、数寄屋造り、屏風絵、有田焼などの磁器、俳諧、仮名草子
元禄文化 浮世草子、人形浄瑠璃、俳句、義太夫節、歌舞伎、垂加神道、陽明学

古学、経世論、和算、浮世絵、友禅

宝暦・天明文化 蘭学、解剖学、国学、古学、洒落本、川柳、狂歌、錦絵、
化政文化 復古神道、天文学、滑稽本、寄席、村芝居、縁日、開帳、巡礼

これだけの文化が成立したということは、江戸期は生活の安定、心の安定、共同体の成立の3条件が揃っていた時代であり、多くの民にとって幸せな時代だったと言えるのではないでしょうか

(「Readyfor」)

 「関ケ原以来の怨念」が明治維新の原動力!?

原田氏が「関ケ原以来の怨念」と述べているのは、直接には長州藩を指します。司馬遼太郎が言うには、日本人を分類する場合は長州人タイプというのがあるそうです(『明治という国家』日本放送出版協会、1989)。具体的には「頭がよく、分析能力をもち、行政能力に優れ、政略的で、権力の操作が上手く、人事の能力に長けている」とのことです。そういった秀でた能力の人間集団が、約270年後に恨みを晴らしたい一心で明治維新を遂行したと捉えることもできるのです。

具体的に人物名を挙げると、戦前なら伊藤博文、山懸有朋、桂太郎、戦後は岸信介、佐藤栄作、安倍晋三と錚々たる顔ぶれです。戦後の3人の首相の在任期間をすべて足すと6391日となり、365日で割ると17.5年となります。実にすべての首相在任期間の1/5強を長州(山口県)出身者で占めた計算になります。

長州藩の毛利家は元々中国地方一帯を治めていた戦国大名です。関ケ原の戦いの時に負けた側についたため、山口県一県に閉じ込められるという憂き目に遭ったのです。百万石以上の石高から36万石の石高になります。家臣に禄を払えませんので2/3位の家臣をクビにせざるを得ませんでした。

(「BS11+トピックス」)

 一つの目標に対して、身分を超えて一つになれる藩

クビになった家臣や士はどうしたのか。百姓になるしかありませんでした。ただ、生活をするために百姓になったのですが、元々は長州藩の士であった、あるいはしかるべき地位にあったというプライドを持ちつつ、山口県に移住して熱き心を維持しながら生きていたのだと思います。いつの日か陽の目を見る時が来ることを信じて。

多分、そういった思いが時を超えて脈々と受け継がれていったのだと思います一つの目標に対して、身分を超えて一つになれる藩になっていきます。奇兵隊は農民、職人、商人がその構成員となります。奇兵隊の奇は正式ではないという意味です。藩の防衛のために藩内のすべての階層の人たちが立ち上がったのです。

幕末に幕府は長州征討を2回派遣します。1回目は幕府に恭順の態度を取りますが、2回目は頑強に抵抗し、幕府軍は却って窮地に追い込まれます。長州藩の団結力の勝利でしょう。ただ、この藩も薩摩藩も藩閥意識が強く、自分たちだけで固まろうとするところがあります。そのことが日本にとってやがてマイナスに作用することになります。次回、そのことについて触れたいと思います。

(「萩市観光協会」)

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