ようこそ日本の危機へ!このブログでは主に最新のニュース、政治、教育問題を取り上げております。

速水融(あきら)先生若き頃の書…『歴史の中の江戸時代』(2) ―— のどかな農村の生活 / 「鎖国」と言って良いのか

  • 2024年9月3日
  • 歴史
  • 27view

「前回のブログで、少しは江戸時代のイメージが変わりましたか?」

女性

「少し変わりました。都市化現象というのは、江戸時代もあったと言われたので、少し驚きました」

「行動や移動が制限されていた時代というイメージを持っている人がいますが、決してそんなことはありません。托鉢をして6年間で全国を回ったという人が本(『日本九峰修行日記』)を出しています。内容は旅日記ですが、そういうことができた時代です」

女性

「そういう本があるのですね。各地に関所がありますよね」

「関所は幕府防衛のために全国の主要街道に50か所位設けられました。入り鉄砲、出女と言って、武器の搬入と人質の奥方たちが逃げないようにするためのものです。旅人や托鉢の坊さんは顔パスでした」

女性

「宿代、食事代は托鉢をして稼いだのですか?」

「当時は洗濯宿、年宿という善人宿があって、そういうところで泊まったようです。食事も提供してくれたようですね」

女性

「当時の日本人は親切だったのですね」

「その書の中に、栃木県大田原の金丸で滞在した時のことが書いてありますが、無人の寺があって、そこに泊めて欲しいと願い出たそうです。そうすると村人たちが大勢集まって貸す貸さないの議論をしたそうです」

女性

「真面目というか、律儀というか」

「ただ単に貸すのではなく、貸すからには面倒を見なければいけないということで、小豆やそばなど誰が何を出すかまで決めたそうなんです」

女性

「何か温かいものを感じますね。」

「本人はそのお返しということで、祈祷をあげたり、襖や障子を張り替えたりということでご恩返しをしています。とにかく、殆んど無一文で6年余の日本全国の旅が出来た時代だったということです」

女性

「ここからが本論です ↓ 表紙は「日本の古本屋」提供です」

 のどかな農村の生活

「古代農奴制→中世封建制→民主制」という歴史の三分法に日本の歴史事象を当てはめて考えるという演繹的な手法によって歴史が語られてきたきらいがありました。

そのため、江戸時代は封建時代であり、士農工商の身分制度が貫かれた社会。移動の自由もままならない、そんな息苦しい社会のイメージを持っている人が多いと思いますが、江戸の農民たちは何か飢饉とか大きな災害さえなければ、かなり自由な日常を過ごすことができたのではないかと思います。

住まいについては一般民衆は土間住まいが多かったとのこと。泉光院の『日本九峰修行日記』の中には、越前の名主の大きな家でも土間住まいだったと書かれています。家の中で作業をするので、大きな家を作り、場合によっては馬もその中で飼うということが普通に行われていたと思われます。そのうち、納屋を立てて家畜と作業場を別々にするようになり、床を敷いて、畳を敷くようになっていきました。中国地方のある本百姓の家の記録がありますが、四畳半2間、三畳2間であったとのこと。これが中国地方の標準だったそうです。庶民の家が大きくなり始めるのは、明治になってからです

(「令和日本回国巡礼-エキサイトブログ」)

 本当に「鎖国」と言って良いのか

前近代的な国家だったという印象を与えたいのかもしれません。「鎖国」という言葉はそのような響きを持った言葉ですが、江戸幕府はオランダを除くキリスト教国の人の来航と日本人の東南アジア方面への渡航を禁止としたのです。17世紀のことです。

どこの国とも付き合わない訳ではなく、長崎の出島を通してオランダや中国と貿易を行い、対馬を中継として朝鮮貿易も行われていました。後者のことについて書かれたものが少ないのですが、長崎貿易よりも取引額が多いことが結構長きにわたって続いています。このように、相手国を選んだ上で付き合っていたということです。

とにかく何よりもキリスト教の布教を恐れたことは間違いありません。1637年に島原の乱が起きます。島原藩主の百姓に対する厳しい取り立てに対する百姓たちの不満が根底にありました。それに対して、島原藩主は年貢を出さない百姓とクリスチャンに対して厳しい弾圧で臨んだのです。この2年後に鎖国令が出ています16世紀後半にキリスト教が入ってきて、あっという間に約70万人が信者になりました。このまま増えたらトンデモナイことになる。そういった危機感が背景にあったと思われます。

(「NHK」)

 江戸時代にあった侵略計画

島原藩主の松倉重政はフイリピンのルソン島侵略を幕府に打診をしていました。1630年のことです重政は3000の弓矢と火縄銃を用意していたそうです。その計画は、重政の突然の死によって中止となりましたが、計画そのものは彼の息子に受け継がれ、1637年まで計画の検討がなされていたのです。

たまたま島原の乱が起きたため、ルソン島侵略計画が幻となりましたが、そのまま計画通りのことがなされていたら、国力は減退したでしょう。そういうことを見据えての日本人の渡航禁止だったのかもしれません。

内に国民のエネルギーを向かわせるために、国境を閉ざすことを政策として行うことは別に間違いではありません。同じ頃にフランスも鎖国を行っています。実際に、そのお陰かどうか分かりませんが、17世紀は非常に開墾が進み、田畑が約80%増加しています(下のグラフ参照)。一早く海外進出したポルトガルとスペインは結局、その後鳴かず飛ばずになってしまいます。戦前の日本も、人のエネルギーを内に向ける政策をとれば良かったのではないかと思います。

(「eclat cyber city」)

読んでいただきありがとうございました。

よろしければ「ブログ村」のクリックをお願いします。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

最新情報をチェックしよう!