「このブログも久し振りにベスト10内に返り咲きました。読者の皆様のお陰です。ありがとうございました」
「最初の頃は毎日発信していたのですが、今は火、木、土の週3回発信です。よろしくお願いいたします。昨年の9月位から週3回にしたのですが、毎日発信していた頃より読者が増えています。不思議だなと思っています」
「量より質が大事ということではないかなと思います」
「かつては粗製乱造だったということですか? それは、心外ですね」
「読む側も、毎日読むのは、結構大変ということではないかと思います」
「週3本ですからね。貯めても、すぐに読めてしまいますが、なるべく時代に合ったテーマを選んでいますので、同時進行で考えて頂けたらと思っています」
「私たちの言葉や視点が皆さんの気付きに繋がれば有難いと思っています」
「そうですね。人はどうしても考え方の「クセ」をしょい込んでしまいます。そうすると、視野が狭くなります。それを防ぐためにも、いろんな方面から考え方や意見を聞くということです。「あっ、そうか」という気付きが結構大切なのです」
「考え方の「クセ」というのが、あるのですか? 走り方とか、投げ方のクセ、フォームのクセは聞いたことはありますけど……」
「脳も一種の筋肉なので、当然「クセ」もありますし、弱点もあります。そして、それは個人だけではなく、企業、団体、国にもあるのです」
「マスコミにもありますよね。今日の朝、売店で東京新聞の1面トップの見出し「国葬で税金使うな」が目に飛び込んで来たのです」
「それで、どうしたのですか? いつもと違う新聞を買わないで、もしかしたら、東京新聞を買ったということですか?」
「今日はそう言えば、2人の話し合いの日だなとハタと気付き、この記事を読んだら何とおっしゃるかなと思ったのです」
「国葬の件については、少し呆れています。国葬をネタにして、自分たちの政治的主張をし始めているという印象を持っています」
「岸田首相は国会で説明するとおっしゃっています」
「説明して納得することはないと思います。必ず材料を探して、何かを言い始めると思います。それも含めて、本論で書きたいと思います」
「東京新聞の記事の感想からお願いします。ここからが本論です ↓なお、表題図版は中央日報提供のものです」
新聞は「公器」を忘れないように
商業新聞の多くは「第三種郵便物認可」新聞です。これは、郵便料金において優遇を受けるに値する新聞として政府・郵政省が認めたという意味です。なぜ優遇を受けるのか。それは国民の知る権利を保障し、民主主義社会の基本である公平な報道に期待を寄せての措置なのです。
要するに、「新聞」というのは民主主義社会を支える上で重要な手段と国が認定し、その証として郵便料金を優遇するという措置が取られているということです。そのため新聞は「公器」と言われているのです。その自覚が余りないのではないかと思われる新聞が増えました。
(「東洋経済オンライン」)
「公器」としての礼節を守られたし
品のない見出し、品のない写真、片よりがある文章を載せれば、周り回って自社の新聞に跳ね返って来ることになります。今日の東京新聞はこの3拍子が揃っていました。「国葬で税金使うな」という1面の見出し。国会前の1000人規模(主催者発表4000人)のデモ隊を写した写真を1面トップに掲げる不見識。取り上げている意見は、すべて国葬反対の立場の意見ばかり。政党の機関紙ではないのですから、少なくとも一つくらいは国葬を支持する側からの意見を載せる必要があります。見事に一つもありませんでした。読者がすべて国葬反対ということではないと思います。読者の信条を無視した紙面構成になっています。
1面と社会面、すべて国葬反対で埋め尽くされています。ある意味、見事だと思いますが、読者は本当に納得しているのでしょうか。
SNSの記事を見ると参加者は約1000人とのことです。主催者発表4000人なので、その程度の参加者だと思います。にも関わらず「プラカードを掲げた人たちであふれ返り、場所によっては身動きがとれなくなるほどの人だかりとなった」とあります。「あふれ返り」も「身動きがとれなくなるほど」というのは、感覚的な言葉。1000人程度でそのようなことはないと思いますが、万が一追及された場合のため「場所によっては」という安全弁的な言葉も沿えてあります。
そして、この記事の終わりを締める2人の参加者の意見――「国葬を開くことで民主主義を守るというなら、まず国会を開いて審議すべき」(ママ)。「国葬は政治的な文脈や意図で行われ、死者を神格化する儀式」。最初の意見は72歳の女性ですが、国葬と民主主義は関係ありません。読み間違いでははないかと思う人がいるかもしれないので、一応そのままという意味で「ママ」としました。
後者は28歳の男性です。これも完全な勘違いをしています。何で安倍元首相を神格化しなければいけないのか? 国葬をしたからといって、誰も彼を神として仰ぐような人は現れないでしょう。思わず笑ってしまった意見です。本来は載せてはいけない意見でしょう。
(「Yahoo!検索ーYahoo! JAPAN」)
国葬費用はやがては国内に還流してくるお金――無駄にはならない
安倍氏の国葬反対でこれだけ反対論があるということは、逆に存在感があった政治家だという証明なのかもしれません。亡くなってからもこれだけ敵がいたのですから、存命中はさらに凄かったことでしょう。その状況の中で、8年8か月という戦後の歴代首相の中で最長の期間を務められたことは事実です。
政治の世界も実力の世界です。主権者国民の支持を得る必要もあります。日本は選挙によって絶えざる洗礼を受ける国です。そういった中での「8年8か月」を単純に評価してもよいのではないかと思います。
反対の論拠として2億何千万という出費額を挙げている人がいますが、政府が使うお金は外国に対する無償援助を除き、日本国内に還流するお金です。別にドブに捨てる訳ではありませんので、無駄使いにはなりません。
どういうことか。日本武道館の管理団体に支払われるお金や要人警護の費用、要人の宿泊代など諸々の費用は施設費や人件費として出費され、当事者に支払われた後、様々なかたちで日本国内に還流することになります。経済的に考えれば、景気へのプラス効果が期待できます。
さらに国葬にあたって世界から多くの要人が来日します。「弔問外交」を展開するチャンスです。多少、不謹慎のそしりを免れないということで、政府は堂々とそのことを言えないと思いますが、折角日本に来るのですから各国の首脳との話し合いの機会となれば、それもまた安倍元首相の遺志に適うことになると思います。インドのモディ首相は来日すると言明しています。これからの日本にとって、インドは非常に重要な外交相手であり存在となります。その首相がわざわざ足を運んでくれる、これだけでも2億数千万円は安いと思います。
(「選挙ドットコム」)
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