「白黒決着をつけるという言葉があるのは知っていますよね」
「ええ、元々は中国の囲碁の碁石が語源と誰かから聞いた記憶があります」
「そうなんですね、中国に「黒白(こくびゃく)を弁ぜず」という言葉があって、それが元となっていると言われています」
「中国では黒白なんですね。どうして、ひっくり返ったのですか?」
「そこまではよく分かっていません」
「チコちゃんに聞いてみますか?」
「ハイ、そうですね。いつかね…。そういうことではなく、………囲碁には狩猟民族の発想が反映されていると常々思っているのです」
「敵味方に分かれて、領地分捕り合戦ゲームですよね。取った石は使えないみたいな……」
「日本の将棋は取った駒を使えますからね」
「将棋の場合は、たまたま敵味方に分かれているということでしょうね」
「その時点では戦うけれど、状況によっては味方になるという考えです。根底には和の精神があったと思います。例えば、戊辰戦争の最後の戦いの函館戦争、幕府側の大将の榎本武揚はその後、明治政府の要職に就いています。そのような例は、日本ではいくらでもあります」
「ところが、……」
「何を言いたいか、もう分かりますよね」
「今の国会の状況とか、それを報道する新聞社の姿勢でしょ」
「昨日のブログで検察庁改正問題を取り上げたのですが、国会、マスコミともに囲碁的、つまり二元論的な発想をしています。そして、そういう発想の時代ではないということを言いたいのです」
「かつては保守対革新と言われました。二元論的な発想であれば、当然どちらがという話になりますよね」
「そうなると、今度はお互い自分の論理しか展開しないということになります」
「ますます対立が深まり、最後は罵倒することになりますよね」
「「毎日」が「法相モゴモゴ 火に油」(2020.5.16)と礼節を欠く大きな見出しをつけて報道しています。結局、最後はこのような捨て台詞になります」
「常に、反政府ということですか?」
「それじゃあ、政党の機関紙じゃあないですか。新聞の立ち位置は、違うと思いますよ。機関紙のようになれば、部数は当然減ります」
「ここからが本論となります。続きを読んで下さい」
戦後日本に持ち込まれた二元論的思考法は、ユダヤ人がつくったもの
二元論的思考法について、「現在まで日本人は日常のあらゆる面でこの二元論にはまっているのであるが、残念なことに、ほとんどそれを意識していないのではないかと思われてならない」(モルデカイ・モーゼ『あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい』沢口企画.2019/54ページ)。この書が書かれたのは40年前ですが、彼の指摘は現在でも有効なのです。モルデカイ氏と著書については、ブログを参照して頂ければと思います。
直近の一番良い例は、検察庁法案改正問題です。白黒の問題になるような事柄ではないのに、現在白黒決着をつけるような方向で動いています。その前の「9月入学説」もそうです。新聞社の中には、いきなり世論調査をしたところがあります。世論調査をするような問題ではありません。都道府県の知事に対してもアンケートを取っています。知事だからといって、教育についての識見があるかどうかは分かりません。実施者の頭の中が二元論的思考法に占有されてしまっています。
「9月入学説」についてですが、9月にした方が良いという理由の中には、傾聴に値するものがあるかもしれません。大事なことは、それを何とか多くの人の知恵で、組み入れることを考えることです。検察庁法案改正問題についても同じです。国を二分して論争するような事柄ではありません。ということは、妥協点が必ず見い出せる問題だということです。それを探し出すことが重要です。かつては、勝海舟と西郷隆盛は膝を突き合わせて話し合い、江戸城無血開城という偉業を行っています。そういう歴史に学んで欲しいと思っています。
大和魂を忘れた日本人
昔、藤猛(ふじたけし)という日系3世のボクサーが世界王座獲得の試合で片言の日本語で「ヤマトダマシイ」と言ったことがありますが、ファイティング・スピリットではありません。
言葉として使った古い例は『源氏物語』ですが、少し分かりにくいので、『今昔物語集』(第二十九)を紹介します――当時、清原善澄(きよはらよしずみ)という法学者の家に強盗が侵入します。わが身危うしと感じたので床下に身を隠します。強盗は金品を盗み、室内を打ち壊して退散しようとします。善澄は余りに悔しいので、床下から出てきてこのことを警察(検非違使)に言うぞと脅します。強盗はこれを聞いて善澄を切り殺してしまうのです。
作者はこれに対して「善澄、才はいみじかりけれども、つゆ和魂無かりける者にて、かかる幼き事を云ひて死ぬるなり」と言っています。要するに、学者として多くの知識をもっているかもしれないが、どういう場面で何を言って良いのかいけないのかがわかっていなかった人という評価なのです。
大和という言葉は、中国(漢)を意識している言葉です。古代は先進的な知識や法制度が中国から入ってきたと思います。中には、今と同じように、そういった知識をひけらかした者もきっといたのでしょう。ところが、そういった漢才や知識はいくら身につけても余り意味がない、大事なのは「『大和魂』であり『大和心』というだったのです」。それはその場を上手く治めるための日本人の知恵というものです。(参考 占部賢志「大和魂の生みの親・紫式部」『日本人の物語』致知出版社.2013年所収)
二元論的思考法(〇×思考法)が全国学力テストの実施により全国に拡散する
全国大学共通テストが、いよいよ今年度(令和2年度)より導入されます。記述式という当初の予定はなくなりましたので、採点を考えてセンター試験と同じような選択式による試験になると思われます。
私が現場で生徒たちに常々言っているのは、社会科の勉強で大事なのは、見方考え方だと言っています。正面から見れば三角形、ところが裏から見れば円ということがある。どちらが正しいのかと言われれば、両方正しい。社会科というのは、そのように正解が2つあるいは3つあってもおかしくない教科なんだよ、と言っています。
そうすると、すかさず質問してくる生徒がいます。「答えが複数あるのに、どうして試験があるのですか」。こういう質問をしてくる生徒を褒めます。そして、「どう考えても、これしかないという答えが出てくるような質問を考えて、試験を作ります。そして、我々教師は成績によって評価しろと言われているので、その材料のために試験をしているに過ぎないのです」と答えます。
そうなんです。枝葉末梢の、どうでも良いことについて問題を作っているだけなのです。何年にとか、誰がとか、その事件の名称など、本質的なことではありません。社会事象は因果関係で成り立っています。大事なことは、その因果の流れを的確に掴む力を身につけることです。その力があれば、これから何か眼前で起きたとしても、自分の能力を駆使すれば対処できるはずなのです。
ところが、大学共通テストを全国レベルで導入するということは、問題はマークシートのオール選択問題となります。まさに黒か白を1つ1つの問題に対して当てはめて、正解に行きつくということになります。知識さえあれば解けます。
何か大いなる勘違い、錯覚をしていると思っています。高校までは勉強をします。大学は学問をするところです。勉強と学問の違いは何か。勉強というのは、すでに答えが分かっているものを理解し、覚えることです。学問というのは、分かっていないことに対して、仮設を立てたり、先行研究に学びながら真理に向かって研究することです。その違いすら分かっていないのではないかと思っています。というのは、高大連携という言葉をやたら使うようになったからです。勉強と学問は視点が違うので、連携する必要がありません。
高校入試までは知識確認型の選択問題でも構わないと思います。しかし、大学の入試問題は、学問をする素養があるかどうかを判定する試験が求められると思います。そのような試験は全国一斉で行うのは不可能なので、各大学で責任をもって実施するということだと思います。
いみじくも香港の大学入試問題に、中国共産党がクレームをつけたため話題になっています。問題内容は、「1900年から1945年の日本の中国の占領統治について、弊害よりも恩恵の方が大きかったという見解があるが、それについて意見を述べよ」というものです。問題内容についてのコメントはここではしませんが、大学入試とはこういう出題があるべき姿なのです。「聖徳太子の十七条憲法は憲法ではないという見解があるが、それについて論ぜよ」、「第二次大戦を当時の日本人は大東亜戦争と呼んでいた。そのことについて論ぜよ」など、意見が分かれているようなことについて出題をするのです。
知識だけ詰め込んだ人間は、何も書けないと思います。これが勉強と学問の違いです。学問の素養があるかどうかを見るための大学入試なので、当然論述形式になります。論点の立て方、論証の仕方、文章の展開、などを見ます。中には、大学教授顔負けの文章を書く生徒もいると思います。
「自分の文章を人に見せることは、人前で裸になること」とある大学の教授が言っています。文章を書かせれば、受験生の問題意識や文章力など、すべて分かります。これを全国共通ではできないので、各大学で行うことになります。かつてのように。戦前、そして1970年代までは各大学で入試を実施していました。それが本来の姿なのです。
私は私立の中・高の教員ですが、本校では入試問題をおよそ1年かけて作ります。その時に、どういう生徒が欲しいのかということを考えて作ります。当たり前だと思います。多分どの私立学校もそうだと思います。仮に、共通私立学校共通テストを実施すると言う話があれば反対すると思います。
大学の教員には、そういうプライドがないのでしょうか。高校の定期試験の延長のような試験、しかもすべて選択問題です。思考力を見るといっても、選択問題である限り限界があります。しかも、まぐれ当たりがあります。考えすぎて間違えるということもあります。それを受けて大学に入ってくるような状況を黙認するつもりなのでしょうか。
一番恐れることは、二元論的思考法が拡散して、そういう考え方をこれからも使って良いとお墨付きを与えることになることです。二元論的思考法、言葉をかえると〇×思考法はユダヤが作ったものです。それが「教育界へ本格的に持ち込まれたのは、日本が最初」(モルデカイ・モーゼ『あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい』沢口企画.2019年/63ぺージ)とのことです。理由は迅速性、客観性ということです。ただ、大きな落とし穴があったと言います。「創造的能力を奪うという大きな問題点を含んでいることは、何故か表面には出なかった。この点は、最近のアメリカ教育界で大問題になりつつある」(モルデカイ・モーゼ.前掲書/64ページ)
津久井やまゆり園での事件、植松聖被告が「意思疎通ができない障害者は不幸を作る」と思い凶行に及びました。面会の家族の様子を見ていると、どうも幸福ではない。彼の頭の中には、幸福と不幸の2つの選択肢しかなかったのしょう。不幸な存在は社会のために消さなければいけない。強い使命感に基づいて実行したのです。彼を動かしたのは、二元論的思考法です。
この黒白しか分からない単細胞思考法が社会全体に蔓延しています。少し複雑な問題が出てきただけで、正確に対応できなくなっています。政府もマスコミ、そして国会も。津久井やまゆり園での事件は、戦後の二元論的思考法の土壌の上である意味、起こるべくして起きた事件だったのです。
共通テストの導入により、日本の大学のレベルもさらに下がっていくでしょう。
読んで頂きありがとうございました。
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