「NHKの「どうする家康」、観てますよね。私の中の秀吉のイメージがあのドラマで随分変わってしまったのですが、彼はああいう感じの人だったのでしょうか?」
「確か前にも、このブログでそんなことを話題にしたと思いますが、硬軟を上手く使い分ける人だと思います」
「ドラマでは、かなり茶目っ気がある人として描かれていましたが、実際にはどうなんでしょうか?」
「大阪城の石垣の石を運ぶ時に、その巨大さを彼は喜び、その上に乗って音頭を取ったので、大坂中の評判になったという記録が残っています」
「憎めない人という感じのキャラクターなんでしょうね」
「締める時は情け容赦なし、緩める時は弾けるという感じでしょうか。あの信長に仕えた人ですからね。ある意味型破れの人だったと思いますよ」
「成る程、大阪城で思い出したんですけど、夏休みに行ってらしたんですよね」
「8月の終わりに行くことは行ったのですが、もの凄い人数のため、天守閣に登ることを諦めました」
「そんなに凄かったのですか?」
「入場切符を買うのに30分以上並び、さらに入場するために並ぶ。あの暑い中を長時間並ぶ気持ちになれませんでした」
「それはそれは、お気の毒さまでした」
「お堀を1周する遊覧船が営業していたのですが、それも2時間待ちでしたね」
「そちらも断念したんですね」
「その前日に見学した和歌山城が空いていたので、大阪城も大丈夫だろうと思って行ったのですが、考えが甘かったですね」
「ここからが本論です ↓」
本格的な石垣の城は信長から始まる
各地に残っている城は大事な文化遺産だと思いますが、城に石垣を組むようになったのは、信長の安土城が始まりです。それまでの城は多少の石積みをしたのですが、本格的に石垣を築くことはありませんでした。
そもそも、中世までは山城だったので、高い山に土塁を盛って、堀を掘って、塀(へい)を張り巡らしたものでした。そして、そこはあくまでも戦いのための施設なので、平時は平地の屋敷に住んでいたのです。
その考え方を変えたのが信長だったのです。石垣を組み、そこに天守閣を建てて、城主はそこに住むという、ある意味合理的な考えがそこにはあります。戦国時代は、いつ戦いが始まるか分かりません。屋敷に寝ている時に襲われるということもあります。そういう心配を無くすためにも本格的な石垣の城が必要と考えたのでしょう。
(「全国史蹟巡りと地形地図」)
城下町が作られ城が地域のシンボルに
戦国の終わり頃になると、平城(ひらじょう)と言って、平地の交通の要衝に城を築き、家臣はその周りを取り囲むように住むようになります。城下という言葉が生まれ、城下町が誕生します。城下町に多く人が住むようになれば、それだけ年貢による収入も増えるので、信長は「楽市、楽座」を導入して、庶民の呼び込みを図ったのです。今で言うところの自由主義経済の導入です。カネとヒトは自由な地に集まる性質があります。それを見抜いた上で、城下の賑わいと繁栄を狙ったのです。
城の石垣、そして堀を巡らして、建物も堅牢なものとする。そのように城に対する発想を転換させる上で大きな原因となったものが鉄砲の伝来です。鉄砲が日本に入ってきたのが1543年です。その威力に着目したのが信長ですが、その威力を恐れたのも信長だったのです。
(「戦国武将のハナシ」)
信長に始まり、秀吉が建て、家康が再建した大阪城
秀吉の城として知られている大阪城ですが、信長が本能寺の変(1682年)で亡くなった翌年から築城を始めています。何もないところに城を建てたのではなく、石山本願寺の跡地を利用しています。石山本願寺は一向宗(浄土真宗)の本山で、こことの戦いに苦労していたのが信長でした。陥落するのに11年かかっています。信長は陥落させた後に、その本願寺を修復して城にしようと考えていたのですが、死んでしまったので、その後を秀吉が継いだのです。
秀吉が築いた大阪城のようすは「大阪夏の陣図屏風」の絵として残っています。その天下に誇っていた城もやがて徳川家康によって攻め落とされてしまいます(1615年)。時が過ぎ、大阪を直轄地とした江戸幕府が城の再建工事を10年の歳月をかけて行います。秀吉の城を再現したのではなく、土台からつくり直し、石垣の高さや堀の深さも以前の倍の規模にしたのです。幕府の権威を示したかったのでしょう。
天守閣は違いますが、石垣と堀は幕府が再建した当時のまま残っています。
(「大阪城豊臣石垣公開プロジェクト」)
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