「大相撲が終わってしまいましたね」
「優勝した御嶽海関には失礼かもしれませんが、意外な結果で終わりましたね。ただ、12日あたりからは気迫が出ていましたけどね」
「照ノ富士がまた優勝するかと思いましたけど……」
「前半でかなりスタミナを消耗する取り組みがありましたからね。あれで、体力と膝への負担が掛かり、後半に逆転されることになったと思います」
「印象に残る取り組みはありましたか?」
「いくつかありましたが、正代と豊昇龍の取り組みが印象的でしたね」
「えっ! それは意外な答えですが、どういう取り組みだったのですか?」
「その取り組みは同体という判定で、その後すぐに取り直しをするのですが、同体と判定された一番は感動しました。豊昇龍というのはモンゴル出身力士ですが、身体能力が高い力士です。正代と投げの打ち合いとなって、豊昇龍は顔から土俵に落ちます。普通は手が自然に出るのですが、手を着かなかったのです」
「どうして、手を着かなかったのですか?」
「だって、出したら負けじゃあないですか。負けないために手を出さず、顔から土俵に落ちたのです。額から血を流していましたが、全く気にしていませんでしたね。その勝負への執念に感動しました」
「昔の日本の武士のイメージが伝わってきました。その執念で取り直しの一番をモノにしたのですか」
「正代は大関ですが、気持ち負けという感じを受けました。番付の移動なんかを見ていると、社会の縮図を見るようですね」
「一種の階級社会ということですか?」
「横綱以外は陥落しますので、自由競争をベースにした階層社会と言えます」
「横綱はどうして陥落しないのですか?」
「横綱は相撲の神様という扱いでしょう。横綱だった稀勢の里が相撲の解説をすることがあるのですが、それを聞くと、ここまで相撲のことを研究していたんだ、強いはずだと思いました」
「体力と技だけでなく、ヘッドワークも必要ということですね」
「さらには努力も必要です。そういう意味でも、実際の社会と似ていると思います」
「相撲を見ながら、それぞれの力士の人生模様が分かると言っていた人もいますよね」
「他のスポーツと同じでいろいろな見方や楽しみ方があると思います。ここからが本論です ↓」
相撲の起源は古代の時代に遡る
相撲の起源を調べてみると、大変古く『古事記』には「力士」という言葉がありますし、『日本書紀』には雄略天皇の時に、褌をしめて相撲を取ったという記録があります。そんなことから、古代の時代に起源を求めることができると思います。
その相撲が奈良、平安の時代には宮中行事となるものの、1174年に廃絶となってしまいます。この頃は、政権が平氏から源氏に移る過程の時代で、都の政情が不安となったのが大きな原因です。
廃絶となった相撲を引き継いだのが、実は源頼朝です。彼はこよなく相撲を愛します。今、NHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」を放映していますが、その辺りのことが出て来るかどうか、見ていて欲しいと思います。
(「日本相撲協会」)
江戸時代の中期以降に庶民の間に広かる
相撲の中に「武士道」の香りが散見できるのは、鎌倉、室町、戦国の世を経て、江戸時代まで武士が活躍した時代の中で保護されたからです。武士たちも相撲の中に、自分たちの生き方を投影したのだと思います。裸と裸の正面からのぶつかり合い、変な邪(よこしま)な考えはそこにはない、力があれば常に勝つ訳ではない、そこには力士の戦局を見る目が必要。ただ、戦略が正しくても、相手にそれを読まれてかわされ、一敗地に塗(まみ)れることもある。それらが殆ど一瞬で決着がついてしまう。この潔さが武士の気風に合っていたのでしょう。
江戸時代の中期以降になると、天下泰平が長く続き、農作物の生産高も安定をして庶民にもある程度の余裕が生まれます。そんなこともあり、土地相撲、上覧相撲、勧進相撲という言葉が生まれます。そのような言葉が生まれたことで分かるように、相撲が庶民の間に広がっていきます。
そして、それが大相撲に収斂されていきます。大相撲の「大」というのは、今までの様々な相撲を取りまとめたという意味があります。そして、勝負の在り方などが、今のような形として徐々に定着していきます。
(「ITmedia」)
「神事+武士道精神」が根底に流れる
大相撲には、「神事+武士道精神」が根底に流れています。土俵をしめ縄で作り、土俵内が結界という考え方です。塩で清めて、地下から悪霊が出て来ないように体重の重い力士が相撲を取りながら踏み固めます。土俵の上は女人禁制です。女性差別ではないかという人もいますが、悪霊が這い上がって出てきた時に、か弱い女性が犠牲になってしまいます。それを防ぐための措置ということです。根底には、女性保護の考え方があります。
土俵は一段高い所に作られているため、力士はケガが絶えません。土俵下に柔らかいマットを敷いたらどうかという意見もあったのですが、勝負の結果、ケガをするのも人生勉強と考えます。土俵は人生の舞台なので、晴れやかな時も、そこからすべり落ちることもあります。そこから這い上がり、さらに一段の高みを目指します。そのためには、心技ともに鍛える必要があります。力が強いだけでは、横綱にはなれません。心技体、そして、頭脳ワーク、さらにはそれらをどのタイミングで繰り出すのか、まさに「間」の哲学が求められます。何回も仕切りをして、それを体現します。
すべてを習得すれば、相撲の神様、横綱になれます。我々の人生と同じです。この自然界は競争社会です。人間の社会も同じです。這い上がろうとしなければ、周りから蹴落とされます。ただ、周りはライバルですが敵ではありません。それが証拠に激しく戦った後は、お互い一礼をして褒めたたえて、今後の奮闘を誓い合います。
まさに人生と社会の縮図がそこにあります。大相撲を支える日本人の心情の根底には、そういったものに対する哀愁のまなざしがあると思います。
(「メンズジョーカー・プレミアム」)
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