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民族としての連続性をもたない時代 (3) ―— 日本軍敗戦3つの理由 / 「敗戦の種」は日露戦争の時に蒔かれていた

  • 2024年5月11日
  • 2024年5月11日
  • 歴史
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女性

「前回のバルチック艦隊の話、興味深かったです。だけど、そういったことを研究されている方が世界各地にいるんですね」

「日露戦争の結果が世界史のターニングポイントになっていますし、その中でも日本海海戦の結果が戦争の行方に大きく影響を与えましたからね」

女性

「私なんか、単純にバルチック艦隊を打ち負かして、日露戦争に勝ったという認識だったのですが、様々な要因が組み合わさったということですね」

「ただ、本来は日露戦争が終わって、戦い方も含めてすべて分析し、反省する材料があればそこで改善しなければいけなかったのです」

女性

「そこが足りなかったということでしょうか?」

「全然足りなかったですね。日露戦争に勝ったということで、海軍記念日、陸軍記念日が設けられ、国は祝賀ムード一色に包まれます」

女性

「お祭り気分になれば、反省どころではないですね。だから逆に、なぜ賠償金を取れなかったのか、という怒りに転嫁してしまったのですね」

「日比谷焼き打ち事件ですね。一つの汚点のような事件です。ポーツマス条約の交渉にあたった小村寿太郎は、国民に散々罵倒されましたからね」

女性

「それだけ国民も戦争にのめり込んでいったということですね」

「バルチック艦隊を破ったということで東郷平八郎は死後に東郷神社が創建され、神格化されます」

女性

「乃木神社もありますよね」

「彼は明治天皇の崩御の報に接して、殉死しています。その後、彼を慕う人たちの浄財により1916(大正5)年港区赤坂に創建されます」

女性

「指揮官が神格化され、神話が徐々に形成されていったのでしょうか?」

「彼らの戦い方も聖域となり伝説となります。それとは別に政権の方は薩長の独裁色が強まると同時に、社会統制も厳しくなり始めます。日露戦争を境に日本が急速に変貌することになります」

女性

「ここからが本論ですが、今回は長めの文章になっています。予めご了承下さい ↓ 表紙写真は「NHK」提供です」

 薩長による独裁が進む

日露戦争後にアメリカのルーズベルトがかつての学友の金子堅太郎の求めもあり仲介に入ります。日本側もロシア側もお互い戦争を継続できないような状況を抱えた中、予備会議と秘密会議を含めて合計15回の会議を行い、ようやくまとまります。賠償金は得られなかったものの、樺太の南半分と千島列島、満州から朝鮮半島の利権を手に入れることができました。しかし、次の戦争で全て失うことになります。何でそういうことになったのか。その原因の種は、この日露戦争で蒔かれています。

軍人の幹部になった出身藩を調べたデータがあります。日清戦争で活躍して陸軍大将になった人が全部で8人いて、薩長以外では1人しかいません海軍大将は3人いますが、すべて薩摩出身です。さらに日露戦争で活躍して陸軍大将になった人が全部で8人いて、薩長以外では1人しかいませんし、海軍大将は10人いますが、1人を除いてすべて薩長出身者です。これを見る限り、指揮能力よりも出身が優先された組織になっていたことが分かります。

薩長土肥と言いますが、薩長への権力集中が進んだことが分かります。それと同時に、治安警察法(1900)、治安維持法(1925)のような弾圧法規が制定され、軍部が独走し始めます。何故、そうなったのかという疑問に対して、作家であり数学者の藤原正彦氏は数学者の友人の薩長土肥には数学を楽しむ文化、探究する文化が存在しなかったのではないかという推測を紹介しながら、「薩長の武断的傾向は大正の頃からの帝国主義へとつながり、ついには昭和の破局に至ることになった」(「明治維新の不思議」『文藝春秋』2023.12)と結論づけています。

(「ホリショウのあれこれ文筆庫ーはてなブログ」)

 「伝説」はどのようにして生まれたのか

明治天皇は日露戦争で死傷者10数万にのぼったことを知り、大変心を痛められたそうです。『歴史人』(2024.5)には「天皇は、亡くなった将兵たちの名簿のすべてや写真に目を通された。その縦覧は、深夜に至っても止まることがなかった」と紹介しています。そういった気持ちが軍指導部にあれば、その後の展開も変わったのではないかと思います。

乃木希典と東郷平八郎は、日露戦争の軍功により1907年に伯爵となります。日露戦争の終結の2年後です。早過ぎます。これでは冷静な分析は期待できません。多少の犠牲は関係ない。とにかく結果を出すことが大事であるとのメッセージを、その後の軍関係者に発信することになります。

そもそも『歴史人』(同上)の記事を読む限り、乃木希典と東郷平八郎、伯爵として遇せられる目覚ましい軍功を挙げたとは思えません。乃木希典が旅順要塞攻略戦で当初とった作戦は、分かり易く言えば、正面突破の肉弾戦です。敵の要塞めがけて突っ込ませました。当然、犠牲者は増えます。死体の山が累々と築かれることになります。そのような総攻撃を3回繰り返しますが、銃弾の餌食となり、すべて失敗に終わります。当たり前です。このような結果だったので、指揮権が乃木希典から児玉源太郎に代わります。そのタイミングで満州司令部は戦術を203高地攻略に変えるのです。

東郷平八郎については、イギリスの「ブリタニア王立海軍兵学校戦史研究室は、昭和海軍の幕僚の能力低下の一因は、東郷平八郎元帥にありとする論文を公表した」(『歴史人』)とのことです。彼は、日本海海戦での自分なりの「勝利の方程式」を普遍化し、戦争の勝敗は主力艦によって決せられるという「大艦巨砲主義」にこだわります。それが昭和海軍に悪しき影響を与えたと論文は指摘するのです。

(「ABCアーク」2024.5月号)

 日本が敗れた3つの理由

『失敗の本質―—日本軍の組織論的研究』(中公文庫、1991)という本があります。実は知る人ぞ知るという本で、私の持っている本は2017年65刷とあります。長年売れ続けていることが分かります。内容は、先の大戦の各地の戦いと日本軍の敗戦を組織論の観点から分析したものです。

なぜ、日本は敗れたのか。様々な原因が絡み合っていますが、1つは「過去の成功への『過剰適応』」(同上)と言います。過去の成功、つまり日露戦争の時の作戦が軍隊という組織の中で生き続け、陸軍が主に使った「銃剣突撃」、海軍が使った「艦隊決戦主義」がともすると精神主義と結びついて、現場の指揮官に影響を与えたと言います。戦いは相手と周囲の状況を見て柔軟に作戦を考えなければいけない、つまり帰納法的に考えなければいけないのですが、最初に作戦ありきのような演繹的思考が幅を利かせていたのです。

2つ目は、軍隊が試験の点数や学歴、出身によって、硬直的な組織になってしまったことです。明治政府は1882(明治15)年に陸軍大学校を創設します。陸軍士官学校の卒業生のうち優秀な人間を選抜しては陸軍内の出世コースを歩くことになります。明治35年までで区切ると、卒業生のうち93%が将官になっています。ただ、すべてが点数による序列です。記憶力が良ければ高い点数は取れます。しかし、それイコール指揮官として有能とは違います。実際に東条英機の父親は陸軍大学校の1期生で、首席で卒業していますが、日露戦争で指揮官失格の烙印を押されています。

現在の官僚組織や会社組織も含めて言えることですが、試験の点数だけで能力を測ることは危険だということです。「日本軍のエリートには、概念の創造とその操作化ができた者はほとんどいなかった」(『失敗の本質』)。つまり、その場の状況に応じて考える力がなかったということです。一番の問題は、戦争の現場から離れたところで、エリートの養成をしたことでしょう。人間は現場を知らないと、観念的思考に陥るようになります。そうならないようなシステムが必要だったのです。

3つ目は、陸軍と海軍が反目し合って、別々の組織として独自の考えで動いていたことです。そのため、陸海空の共同研究さえもなかったと言います。先の大戦を見ると、陸軍は主に大陸で戦い、海軍はそれに背を向けて太平洋でアメリカと戦っているような状況でした。アメリカには統合参謀本部があり、そこが陸・海・空軍の機能を一元的に管理していたのですが、日本の大本営はそのような組織ではありませんでした。「それぞれの利益追求を行う協議の場にすぎなかった」(『失敗の本質』)のです。要するに、情報交換の場、程度の位置付けだったのです。負けるのはある意味、必然的であったということです。

(「中公文庫」1991)

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