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民族としての連続性をもたない時代 (2) ―—日露戦争の頃 / 軍事イデオロギーがつくられ始めた時代

  • 2024年5月9日
  • 歴史
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女性

「「日露戦争を境に日本が急速に変貌した」との司馬氏の言葉を前回紹介しましたが、その原因をどのように考えていますか?」

「いきなり、難しい質問ですね。まず、認識して頂きたいのは、日清戦争と日露戦争、犠牲者の数が全然違うということです」

女性

「犠牲者というのは、戦死した数ということですよね」

「戦死だけではありません。通常、死傷者のデータで見ます。但し、その場合の傷は、2度と兵役につけない程の傷を受けたという意味です。日露戦争は日清戦争の何倍だと思いますか?」

女性

「そういう質問をするということは、日露戦争の犠牲者が相当いたということですね。3倍くらいですか?」

「およそ7倍ですね。数にすると、11万8千人です」

女性

「それだけ多くの犠牲者が出たのであれば、国民は日露戦争への思い入れを強くするでしょうね」

「というか、政権を担っている者としては、国民を納得させるために成果を誇示する必要があったと思います。マスコミがそれを応援するような報道をしたのでしょう。勝った、勝ったと宣伝しましたので、国民は大国ロシアに勝ったと熱狂したのでしょうね」

女性

「WBCでアメリカに勝ったようなものでしょうか? 本当は、どうだったのですか?」

「かろうじて勝った、辛勝というのが正確でしょうね。ただ、長引いてしまえば、逆転負けもあるという状況だったと思います。上手いタイミングでアメリカが仲介に入ってくれたのです」

女性

「5回くらいで試合を終わらせてしまったのですね」

「野球が好きなんですね。例えれば、そういうことでしょうね。当時は、ルーズベルト大統領ですけどね。その頃は、アメリカは日本を応援していたのです」

女性

「そうなんですね。ここからが本論です ↓ 表紙写真は「ジャパン・ウォーゲーム・クラシックス」提供です」

 軍事イデオロギーがつくられ始めた時代

なぜ、かつての日本人は死を恐れず戦地に向かって行ったのか、と思うことがあります。愛国心という言葉で片づける人がいます。武士道精神というのも確かにあったと思います。ただ、実際には「軍事イデオロギー」の影響が大きいでしょう。一種の洗脳、祖国のために命を投げうつのは当たり前みたいな感覚が、社会を覆うように形成されていったのではないかと思っています。

その際の手段として学校教育の修身が使われています日清戦争の「成歓の戦い」の際にラッパ兵として参加していた木口小平という兵士が敵弾を受けて死亡しています。彼は歩兵第21連隊に所属していたのですが、彼はラッパを口に付けて死亡していたことから武勇伝として尋常小学校の教科書に取り上げられるようになります。

日露戦争開戦の直前の1903年に小学校令が改正され、国定教科書制度が成立します。さらに1906年には神社局が神社の統合を命じています。各村に神社は1つとされ、神事の作法も地方によって異なっていたものを国が1つにまとめたのです。

(「一握の知力」)

 多大な犠牲を払って取った203高地

2024年4月に『歴史人』5月号が出版されました。中身は「130年目の新解釈 日清・日露戦争」です。それぞれの戦争について、戦争に至る社会背景や様々なデータ、各所での両軍の戦い方など細かく記されています。これを参考にしたいと思います。

日露戦争と一言で言いますが、勝敗の行方を左右する旅順戦と日本海海戦に至るまで、仁川沖海戦、旅順港閉塞戦、鴨緑江会戦というように各地での戦闘を繰り広げています。旅順が最終決戦の場となったのは、旅順港にロシア太平洋艦隊の主力が置かれ、陸上には要塞が築かれていたからです。

203高地ということで有名ですが、203というのは標高を意味しています。旅順郊外にある丘陵で、乃木希典が戦死した兵士を讃えて爾霊山(にれいさん)と戦後に命名していますが、この203高地が要塞の一番端にあたります。当初の作戦は、ロシア軍の主力に対して正面突破作戦が敢行されます。3波にわたる総攻撃をしますが、大きな犠牲が出るだけで終わります。そこから203高地攻略に作戦変更をして、そこを攻略し、それを足場に旅順要塞を占拠することができたのです。ロシア側の死傷者約3.1万人、日本の死傷者約5.9万人でした。

当時、世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊ですが、旅順が陥落した時はまだ、南アフリカの辺りにいたのです。投入するまでもなく、日本軍など簡単に踏みつぶせると思っていた節があります。ニコライ2世が投入を決めたのが1904年の5月、開戦の火ぶたが切られてから3か月後のことでした。

(「楽天ブログ」)

 バルチック艦隊が撃破された3つの理由

そのバルチック艦隊を日本の連合艦隊が一方的に撃破してしまいます。ロシア側の損害は、沈没21隻、その中には旗艦スワーロフも含みます。死傷者5000人、それに対して日本は水雷艇3隻だけで撃沈された軍艦は1隻もなかったのです。そして死傷者700人でした。野球で言えば3回コールド勝ち位の圧倒的勝利だったのです。世界が驚いたのも無理はありません。なぜ、そのような結果になってしまったのか。現在も世界の各地で研究がなされているそうです。

調べていくと、様々なことが分かってきました。1つは、練習不足です。これは、星野芳朗氏が自身の著書の中で指摘しているのですが、海戦の直前まで日本艦隊は実戦同様の訓練を重ねてきたのですが、バルチック艦隊は黒海から大西洋、喜望峰を回ってインド洋から対馬という遠距離を移動していますので、訓練する時間がなかったのです。いくら大リーグの選手といえども10か月も練習していなければ、高校野球選抜チームに完敗してしまうこともあるということだと思います。しかも長旅のため厭戦(えんせん)気分も広がり、寄港先で脱走する兵隊が出る有り様だったとのこと。

2つ目は、使っていた燃料の石炭の質です。これは最近の研究で明らかになったそうですが、発熱量の高い無煙炭ではなく、有煙炭を使用していたため最大速度18ノットなのに11ノットしか出ていなかったようです。まさに、狙い撃ち状態だったようです。

そして3つ目は、それを素早く見抜いた名参謀、秋山真之(さねゆき)の現地での指揮です。対馬付近に偵察船の信濃丸を配置し、戦闘態勢を一早く取らせます。迎え撃つ側はいざ出陣の気構え、相手は半分やる気がないような状態の上、練習不足と不適合の燃料を背負っての戦いとなります。海戦は始まって30分でほぼ決着してしまいます

日本海海戦の勝因―—東郷平八郎の敵前大回り作戦の勝利という神話がまことしやかに流れていますが、『歴史人』は、そうではないと書いています。

(「朝日新聞デジタル」)

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