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台湾との絆を深める時 ―― 台湾のコロナ対策がほぼ完璧なのは何故か / 日本統治下で進められた医療防疫事業―—PART3 

「植民地下の台湾で、名前を張星賢というのですが、日本人として五輪に出場した選手がいるのです」

女性

「殆ど知られていないですよね。どういう経緯でそのような人がいたことが分かったのですか?」

「ニュースソースは今年の「日経」の夕刊ですが、それによると日台の文化交流が2014年から始まり、台湾歴史博物館には多くの五輪出場選手のデータがあるそうです。その中からの紹介です」

女性

「何の種目に出たのですか?」

「1932年の米ロサンゼルス五輪大会に400メートル、400メートルハードルの日本代表選手として出場しています。1936年のベルリン五輪にも出場しています」

女性

「メダルはどうだったのですか?」

「取れなかったみたいですね」

女性

「私たちがその存在を知らないということは、戦後台湾に帰って、そのまま陽の目を見ることなくということですか?」

「どうも、そうみたいですね。張星賢は戦後台湾で指導者になったようですが、日本代表の過去がいろいろ邪魔をしたようですね。日本と台湾、戦争がいろんな人の人生に影響を与えるということですね」

女性

「スポーツで思い出しましたが、台湾映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』、私は話が出来過ぎていて、作った話かと思いました」

「嘉義(かぎ)農林高校ですよね。嘉義(かぎ)農林の頭の音を取って『KANO』ということですね。春夏合わせて台湾代表として5回甲子園に出場していますが、準優勝した1931年大会を映画はメインにしています」

女性

「監督が野球に人種は関係ないというシーンが感動的でした」

「テレビでも、そのシーンを紹介していましたよね。甲子園準優勝の顔ぶれは、先住民4、漢民族2、日本人3、そして監督が日本人です」

女性

「こういった活躍もあって台湾に野球が定着していくのですよね」

「プロ野球も作られ、日本に来て活躍した選手もいます」

女性

「ここからが本論です  ↓」

 

 台湾のコロナ対策の成功は一人の天才的なデジタル大臣の活躍があったから

台湾に野球が普及したのは、そういった高校球児の甲子園での活躍が大きかったと思います。また、コロナ対策で台湾は日本よりも素晴らしい成果を上げていますが、防疫の考え方を伝えたのは日本なのですが、「本家」が追い越されてしまっています。その辺りを探ってみたいと思います。

日本では昨日の4/25から3たび四都府県に緊急事態宣言が発せられてしまいました。ちょうど1年前のこの時期も緊急事態宣言が発せられていたのですが、国民の誰もがまさか、その1年後にまた宣言が出されるとは思ってもみなかったと思います。

4月25日現在でコロナによる死者数が9978人、感染者が約57万人です。うち、重症者が864人という数字が出ています片や台湾は、死者12人、感染者1097人でほぼ完璧に抑え込んでいます(4月24日現在)が、欧米のようなロックダウンはしておらず、水際対策と衛生管理、「オープンガバメント」によって抑え込んだとしています。

 「オープンガバメント」というのは2016年に台湾のデジタル担当大臣に就任したオードリータン氏の言葉ですが、市民から出てきたアイディアをすぐに政策として採用したり、情報として発信したりということをしたのです。例えば、市民からマスクを売っている薬局が一目で分かるアプリがあればという要望がでると、それにすぐに対応したり、マスクを万能調理器具で消毒すれば何回でも使えるという情報をもらって、それをそのまま市民に流したりというようなことをしたそうです。

このオードリータン氏は天才デジタル大臣ということで日本でも結構有名ですが、このように実力がある者を登用する土壌が台湾にはあるということでしょう。日本は世襲議員が多く、古い因習がのさばっているところがあります。いくら実力があっても選挙で5回、6回と勝たなければ大臣にはなれないというのが一つの不文律としてあります。現行憲法上、国会議員でなくても必要な人材ならば大臣として任命できるのですが、今までそういった例はわずかに一人だけです。慧眼をもった人材を発掘して国家の中枢に入れることが必要なのです。特に今のような激動期はそういった発想が必要です。企業も同じです。

(「アメブロ」)

今は多様性ということで、女性議員を増やそう、女性閣僚を増やそうという動きになっていますが、女性が増えれば社会の多様性が進む訳ではありません社会はそんなに単純ではありません。日本の歴史と文化を踏まえて考えるべきことです。企業も同じです。取締役に女性の占める割合が多くなると会社が発展するとは、誰も思わない話です。やはりその企業が依って立つ企業風土などを勘案して決めるべき事柄です。

 後藤新平が中心になって進めた台湾の医療防疫事業

話をコロナに戻します。前述したように台湾はコロナ対策の点において、日本の上をいっていますが、日本が統治をし始めた頃は全く逆だったのです。ペスト、コレラ、チフス、赤痢、マラリアが度々流行していましたが、当時は特効薬もワクチンもありません。命を落とす人も多かったのです。記録によると、統治2年目の1896年にペストが流行しています。その年から1917年までの20年間で感染者約3万人、そのうち死者約2万4千人、致死率80%という驚くような数字が残っています。

台湾は高温多湿なので病原菌がはびこりやすい上に、当時は衛生管理が殆どなされておらず、様々な悪条件が重なっていたのです。実はそういうこともあって、後藤新平が起用されたのではないかと思われます。後藤新平は医師であり、内務省の衛生局長を務めています彼の手腕を児玉源太郎が知ることになったのは、日清戦争が終わり凱旋帰国する兵士たちの水際での検疫対策事業です。帰還兵約23万人。この検疫を手際よく約3か月で終えます。その時の陸軍の検疫担当次官が児玉源太郎だったのです

そして台湾の第4代総督として児玉源太郎が任命されますが、彼が総督府民政長官として後藤新平を抜擢してともに台湾の統治にあたることになります彼らが任に就いた時はまだ武装集団が跋扈していた時です。そちらの対策をしつつ公衆衛生事業を推し進めなければいけませんでした。まず官立の台湾病院を台北に設立、翌年に台中、台南に総督府病院を設立というように病院を各地に設置します。台湾住民の子弟を医師として養成するための医学講習所(医学校)を創設。さらにへき地医療ができるように公医制度を整えます。各地に上下水道を整備して、それと併せて衛生意識を高めるための啓蒙活動も行ったのです。このように「日本人が礎を築いた台湾の近代医学は、戦後、台北帝大→台湾大となり、公衆衛生の意識や対策も引き継がれてゆく」(「感染症と闘い続けた医師―台湾日本人物語」『産経』2020.12.9日付)のです。

(児玉源太郎/「コンパス・ポイント」)

 台湾統治に対して日本で反対の声が高まる

実は、このような台湾の統治に対して、本土は別の観点からそれを評価していたのです持ち出しが余りにも多いので、台湾売却論が出ていたのです。人とカネをつぎ込んでも、結局日本にとって何の見返りがないではないか、というものです。日清戦争に勝ったといっても日本は経済的にはアジアの弱小国、分相応という言葉があるように、植民地経営などという大それたことを考えずに地道にいこう、今は国内に目を向けて国力を充実させる時だし、そちらの方が重要という至極もっともな意見が出ます。

もし、当時のそういう状況下でそういう意見が出た時に、私はなる程と思い売却賛成、撤退賛成と言うかもしれません。その際の一番の大きな理由は、現地の人たちの理解が得られていないということです。前々回のブログで紹介しましたが、台湾の現地の子供たちを教えるのだと希望を胸に台湾に行ってみたら、就任式の前に6人の若き教師が全員が首を切り落とされて殺されるというショッキングな事件(芝山巌事件)もありました。余談ですが、この中に吉田松陰の甥がいたのです。

児玉源太郎と後藤新平が赴任した時も武装集団は各地で跋扈していました。武装集団と台湾の民生事業、さらには日本国内の台湾に対する「世論」という3つの難問が彼らの前に突き付けられたのです。ここで後藤新平はそれらの問題をすべて解決するための新しい施策を実行に移すのです。

そのことについては、明日のブログで書きたいと思います

(「note.com」)

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