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台湾との絆を深める時 ―― PART4 / 八田與一の活躍 ―— 台湾の人々のために生きた生涯 

女性

「今日の『産経』(2020.4.28日付)に芝山巌(しざんがん)のことが載っていましたね」

「私も読みましたが、1995年に芝山巌学堂の記念大会を100年の節目ということで開いてくれていたのですね」

女性

「日本から50人ほどが出席したと書かれていますよ」

「現在の台湾の台北市にある士林(しりん)小学校のルーツが芝山巌学堂という捉え方で、現在でも校内に日本の統治時代の記念物が置かれているそうです」

女性

「士林(しりん)小学校の前が八芝欄(はっしらん)公学校なんですね」

「その校舎の一部を移築したそうです。校名はいろいろ変わりますが、それらの流れを丸ごと受け継ごうというのは、日本も見習った方が良いと思います」

女性

「日本の場合は、校名が変わると、そこでその学校の歴史は終わりみたいな捉え方をしますよね」

「そうですね。閉校式を行って、そこで歴史を閉じてしまうということが普通にあります。ただ、その違いは一体何なのかなと、今考えています」

女性

「台湾の方の考え方、捉え方にポジティブなものを感じます。始まりは芝山巌学堂と捉え、八芝蘭公学校、士林国民小学校と、様々な校名の変遷があり、現在の士林小学校に至ったのですね」

「もともと日本はそういう考え方をしていたと思うのです。とにかく、『かけら』でも何でもバトンとして受け継いで繋いでいく、その『かけら』に先人の気持ちを感じてそれを糧に生きていくみたいなものがあったと思います」

女性

「その考え方というか感覚が台湾で受け継がれているということですね」

「そうですね。日本人としては寂しいような嬉しいような複雑な気持ちです」

女性

「だけど、士林小学校の校長先生は台湾最古の学校ということで誇りに感じているとおっしゃっているので、嬉しい限りですね」

「伝統を受け継ぐという感覚が日本で薄れていて、それが台湾にあるというのはある意味、歴史の皮肉ですね」

女性

「ここからが本論です ↓」

 

 台湾の農業の発展のために「ダム」が必要と判断

台湾のために尽力した日本人を紹介してきましたが、今日は八田與一(はったよいち)を紹介したいと思います。台湾の教科書でも紹介されている日本人です。今でも、現地で慰霊祭をしていただいています

八田與一は、ダム建設さらには嘉南大圳(かなんたいしゅう)をはじめとする運河建設のために尽力し、不毛の地といわれた台湾の大地を一大穀倉地帯に変えるべく努力された方です。

台湾を地形的に見ると、そのほぼ真ん中を背骨のように南北に走る5つの中央山脈があります。標高3000メートルを超える山が256峰あります。台湾で一番高い山は、「新高山(にいたかやま)」ですが標高は3952メートルあり、余り知られていませんが、実は富士山よりも高いのです。

その高い山々が中央にそびえて、その裾野に平野があるのですが、山の高さの割には平野面積が狭いため、急流な河川が多く、降ってもすぐに海に流れ落ちてしまいます作物が出来るか出来ないかは、すべて天の神様次第という状況だったのです。特に南部地域は、熱帯モンスーン気候で、雨季と乾季がはっきり分かれていて、乾季には鍬や鋤の刃が田に入らないほど乾燥で固まる程なのに、雨季には氾濫した河川の水が田畑を埋没させるほどだったのです。

(「pinterest」)

 八田のアイディアー―「3年輪作」

八田與一が渡台したのは1910年のことです。東京帝国大学土木科を卒業して、すぐに台湾総督府の土木部に就職します。そしてすぐに、台湾北西部の「桃園埤圳(とうえんひしゅう)」の設計と監督を任されます。桃園は地名、埤圳というのは、灌漑施設のことです。埤は水を貯める貯水池のこと、圳は水路のことです。彼が最初に手掛けたプロジェクトですが、その仕事をしながら発電ダム建設の計画を立てるための調査、さらには南西部に広がる嘉南平原の水利灌漑施設の建設調査も行います。

八田與一が台湾で評価されているのは、そういったプロジェクトの完成もさることながら、「3年輪作」を考え出したことです。「3年輪作」こそが、農民のためを思った末のアイディアだと言われています。

「3年輪作」というのは、水量が絶対的に足りないこの地域に合った農業です。彼は、仮に嘉南平原に水を供給できるような巨大ダムが完成したとしても、必要な水量の1/3しか供給できないことが分かっていたのです。そのため、稲作とサトウキビ栽培と畑作の「3年輪作」を提唱したのです。稲作は大量の水が必要です。サトウキビ栽培と畑作は水は余り必要ではありません。その2年の間に、次の稲作に備えてダムに水を貯めるという考えなのです。

ただ、この「3年輪作」が上手くいくためには、村ごとに何を今年は作るのかをみんなで決める必要があります。しかし、お互い協力することができれば、農作物の増産は達成できます

    (烏山頭ダム/「建設コンサルツ協会」) 

 八田與一の銅像が烏山頭ダムの近くに建てられる

1930年に10年の歳月をかけて烏山頭ダムと嘉南大圳が完成します。ダムの貯水量は約1億5千万トン、水路の長さは全長1万6千キロに及び、それは万里の長城の6倍もの距離です。余りピンと来ないかもしれませんが東京、名古屋間が約400キロです。20往復する距離ということです。だから、ダムの完成式典で水門を開き、毎秒70メートルの水が勢いよく飛び出し、それが海岸まで達するのに丸2日かかったと言われています

嘉南平原の耕地は、台湾全耕地の約1/5を占めています。そのため、このプロジェクトがもたらした影響は大きかったのです。7年後の1937年には工事前に比べて米の生産額は11倍、サトウキビは4倍の収穫量だったのです。

ただ、工事の途中で爆発事故のために50人が死亡するという大災害も起きています。その時に、八田は犠牲となった台湾人工員の家を一軒一軒回って陳謝したと言われています。そして、工事が完了して1930年に「殉工碑」が建てられます。そこに工事期間中に事故や病気で亡くなられた日本人41名、台湾人92名の名前を日本人、台湾人を区別せず死亡順に刻印し、起草した一文を添えたのです。

現在、八田與一の銅像が、烏山頭ダムを見渡すことができるようなところに建てられています。蒋介石時代の台湾では日本人の銅像を作ることは禁じられていました。現地の人は、逮捕覚悟で銅像を作り、事務所内にそれを隠していたのです。時が経ち、『台湾名人伝』という本にも、日本人でありながら八田與一のことが取り上げられ、教科書にも掲載されるようになりました。銅像も事務所から移され、そこで毎年彼の命日の日に慰霊祭が行われるようになったのです。

日本人なのに台湾の人々のために生きた八田與一の生涯、民族や国境を越えたその生き様が現地の人を感動させているのだと思います

読んでいただき、ありがとうございました。

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