「「日本人は、いつも思想はそとからくるものだと思っている」と言ったのは作家の司馬遼太郎氏です。命日が2月12日なのですが、もうすぐ、没後15年になります」
「仏教や儒教、道教、キリスト教など海の向こうから来た思想ですものね。待っていれば、来るものだと思うようになっていったということですか」
「例えば、仏典をインドから中国に伝えた玄奘三蔵のように苦難の旅を続けて伝えたというドラマが余りないですよね」
「弘法大師の諡名(おくりな)を貰った空海は、いかがですか?」
「空海、最澄は同じ遣唐使船で中国に渡って、そこで学んだことを日本で広めています。当時の留学僧ですよね。現代で言えば、エリートです。苦難という言葉が似合わないような気がしますけど……」
「彼らも含めて遣唐使、その前は遣隋使ですか、そういった人たちによって優れた教えや文物が大陸から多く伝わったということですね」
「だけど、それをそのまま日本の中で流布させるのではなく、日本流にアレンジして、独自のかたちに仕上げて、最後には日本の文化にしています。この「切り返し」は見事だと思っています」
「歴史の教科書にも、「国風文化」として紹介されていますものね。確か、平安時代の説明だったと思います」
「遣唐使が廃止されて、「国風文化」が生まれたというような書き方がされていますが、日本の文化は殆どが「国風文化」です」
「日本独自という点では、そうかもしれませんね」
「島国であったため、日本独自の文化が、約1000年の封建時代の中で熟成されます。例を挙げればキリがないほど多くあります。伝来仏教は日本の中で多くの宗派に分かれ、漢字からひらがな、カタカナが生まれ、元号、茶の湯、枯山水、和歌、俳句などです」
「地方にも、独自の文化が起こります」
「今はもう無くなりつつありますが、方言が最たるものと思います」
「方言が使われなくなり、それとともに地方も衰退していっていますね」
「言葉や文字が民族やその地方に住む人にとってのアイデンティティですからね。方言を学校教育できちんと教えているのは、沖縄県くらいでしょうね。そういう県は人口が増えます」
「ある民族を滅ぼそうと思ったら、まず言葉をなくすことを考えろと言われているそうですね」
「それを現在、着実に実行しているのが中国ですよね」
「何か、段々怖い話になってきてしまいましたね。ここからが本論です ↓」
目次
農耕民族であるが故に受け継いでいるDNA
日本人は農耕民族ですが、どうしても心配性です。作物が出来るまでには、水や温度や気候、肥料、はたまたどのタイミングで人の手を入れるか等考えることが多いからです。神経がどうしても繊細になります。大陸の狩猟民族は、その点は逞しいと思います。獲物がいる所に行けば良いという発想をするからです。
そういった生活環境が何万年も続くと、それが精神構造を形づくり、さらに民族のDNAとして子孫に受け継がれていくことになります。繊細であるが故にプレッシャーに弱く、衝撃的なことがあると、自信喪失になってしまうことがあります。日本人の上がり症というのは、先祖から受け継いだものです。
(「五十六謀星もっちい」より)
黒船来航と敗戦が日本人の精神構造に大きな影響
衝撃的なことは、過去に2回ありました。1つが黒船来航です。もう1つが76年前の敗戦です。幕末の黒船来航でその規模の大きさに度肝を抜かれてコンプレックスをもちます。だから、すぐに不利な条件でアメリカと条約を結んでしまいますし、明治期に西洋文化をアップテンポで受け入れてしまうのは、そのためです。
西洋に対するコンプレックスが、日清、日露といった戦争をする中で段々払拭されていったのですが、1945年の敗戦によって西洋コンプレックスがまた増大します。それが、日本列島に広がることになります。このように、現在の日本人の基本的な精神構造に大きな影響を与えた2つの事案を含む歴史、つまりこの約150年間の歴史をきちんと分析する必要があります。それがコンプレックスを払拭することに繋がります。
テニス界の「悲劇」は西洋に右倣えをしたために起きた
元プロテニスプレィヤーの田中信弥氏が『テニス・インテリジェンス』(KADOKAWA、2021年1月)という本を出版されました。その中で、戦前、日本人の男子がテニスの全米、全英で活躍した話を紹介しています――「1990年代の初頭には、軟式テニス出身の日本人選手が、世界の硬式テニスを席巻したのです。当時は珍しかったトップスビンの「独特なテニス」は、外国人選手を翻弄、日本の硬式テニスは黄金期を迎えました」(同上、27ページ)。後は、この流れを保つことを考えれば良かったと思うのですが、何故か繋がらなかったのです。
「ところが、そこから悲劇が始まります。軟式テニス打ちで世界トップの一端を狙う立場を確立した日本でしたが、当時の海外テニスの主流は薄いグリップでフラット&スライスショットが中心。そこで右にならえがごとく、こともあろうに海外ブランドに手を出したのです」(同上、27ページ)。
私が硬式テニスと出会ったのは、1968年です。ある私立中学校のテニス部に入部をします。ウッドラケットでした。日本のラケットメーカーはフタバヤと川崎でした。重さが380から400グラムくらいだったと思います。ですから、今のラケットより、80~100グラム位重かったと思います。硬式ボールが貴重な時代でした。1球が現在の貨幣価値に直すと2000~2500円位したと思います。ボールの色も白の時代です。ボールが貴重品ですので、球出しという練習はありませんでした。1つのボールを打ち合って、様々なショットを練習したのです。
当時は、真っすぐ引いて真っすぐ打てと教えられました。トップスビンという言葉はなく、ドライブと言っていました。自然に回転がかかるのが良い打ち方と言われていました。バックハンドは片手打ちが常識、両手で打っていた友達は「女打ち」と言われ、片手に直されたものでした。そして、スライスが基本です。スライスも自然に回転がかかるように打ちます。上の写真で当時の清水善造氏のバックハンドグリップが分かります。清水善造氏は1920年の第40回ウィンブルドンに出場してベスト4になった方です。準決勝の当時世界ナンバーワンプレイャーのチルデンとの名勝負は今でも語り草になっていますが、あのように厚い握りでバックを打っていたことは、知りませんでした。田中信弥プロに言わせれば、私は「西洋テニス」を習っていたことになります。
再び、田中信弥氏の文章を紹介します。「海外の識者は言うでしょう。『なぜ日本テニス界は、はじめから戦績をあげることのできた軟式テニスの打ち方を捨て、欧米諸国のテニスを真似したのだろう。結果、100年もの長きにわたり、日本テニスは衰退を余儀なくされた。……』」(『テニス・インテリジェンス』28ページ)
(群馬県高崎市)
実は、それと同じような心理的メカニズムが戦後の憲法と統治のあり方に作用しているのではないかと思っています。その辺りについてみてみることにします。
世界最古の王朝であることに誇りをもち、足許を見つめる努力を
戦後は敗戦のショックと焼け野原、原爆の後の玉音放送から始まっています。たぶん、すべての自信が吹き飛んでしまったのでしょう。それと同時に、戦前の歴史を全面否定するという心理が働いたのではないかと思います。
1つのロジックが形成されていきます。戦後アメリカによってもたらされた日本国憲法は平和憲法と言われるようになり、日本社会に定着していくことになります。わずか1週間くらいで急遽作成された憲法が、制定から75年経った今も一字一句改正されることなく息づいているのは、そこに論理を超えた日本人の心理的メカニズムが作用しているためだと思っています。
ただ、時代はすでに21世紀の令和の時代となりました。そういった心理的呪縛から抜け出して、日本の歴史を真摯に見つめ、現在の社会に起きていることをデータにもとづいて分析することにより正しい方向に歩み始めることを考える時です。
日本という国は、一つの王朝が古代より連綿と続いている国です。何故、そのように長く続いているのかと言えば、8世紀の天武期に現在の象徴天皇制をシステムとして確立したからです。つまり、権威と権力を分離して、天皇は権威者として君臨するが、権力を振るうことはしない。実際の政治については、家臣に委任をしてその者たちが権力を使って統治をするという体制です。この体制が国の政治を安定させ、独自の文化が花開くことになります。
(「Pokke Magazine」)
黒船来航と敗戦という日本に衝撃を与えた2つのことがありつつも、日本の根底にある統治の考え方や文化は現在もなお連綿と続いています。人は移り変わるものに視線が向かいがちです。そのため、足許を見ることを忘れてしまうことが多々あります。
古代から変わらずその根底に流れているものを見つめ、その流れを途切れさせないようにすることが一番重要なのです。特に、現代のような時代においては。
読んでいただき、ありがとうございました。
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