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戦後「第四の権力」として立ち現れた新聞社  ―― 再販売維持制度を見直す時代 / 「クロスオーナーシップ」が諸悪の根源

女性

「前回は、珍しく新聞に関する話題でしたね。ところで、新聞について不思議に思っていることがあります。夕方まで売れ残っている朝刊は、半額くらいで売れば良いのにと思いますけど、ダメなんですか?」

「再販維持制度というのがあって、それが出来ないことになっています」

女性

「いつ頃に出来た制度ですか?」

「戦後すぐの時期に「独占禁止法」が制定されたことは知っていますよね。要するに、自由競争OKなので、自由に価格を付ける社会の実現を目指したのですが、それを改正して作られた制度です」

女性

「新聞は例外品とされたのですね」

「そうですね。ただ、新聞だけではありせん。書籍、化粧品、医薬品、音楽ソフトなどを例外品目として保護の対象としたのです」

女性

「「保護」という発想だったのですね」

「そうですね。定価で売ってもらうことによって、販売店も含めて、新聞業界、ひいては言論の自由を守ろうという考え方だったのです」

女性

「定価で売るのは構わないと思います。ただ、食品でも古いものを安売りするように、夕方まで売れ残った朝刊を半値くらいで売ることがあっても良いと思います」

「成る程、だったら買う人がいるでしょうね」

女性

「売る側も買う側にもメリットがあると思います」

「「押し紙」(新聞社が販売店に押し付けてくる新聞のこと)の問題が表面化した時代です。再販維持制度も見直す時代に入ったと思います」

女性

「ここからが本論です ↓表紙は「せどペディア/せどり&転売ビジネスの攻略ブログ」提供です」

 多様性を守るための制度であった

戦後の日本では、「言論の自由」と「多様性の確保」が民主主義の根幹であると考えられてきましたそのため、新聞には再販維持制度が認められ、価格競争を制限することで地方紙や中小紙の存続が図られてきました。市場原理に任せれば、大資本による寡占が進み、言論の多様性が失われると考えられたからです。

また、テレビなどの放送事業については免許制度が採用され、一定の公共性と信頼性を持つ主体にのみ参入が認められました。このとき選ばれたのが、すでに報道機関としての実績を持つ新聞社です。こうして新聞とテレビは密接に結びついていきました。

これらの制度は本来、言論を市場や権力から守るために設計されたものです。競争を制限することで多様性を維持し、公共性を担保するという発想でした。いわば、「自由な言論を守るための制度的防波堤」として機能することが期待されていたのです。しかし、この時点ではまだ見えていなかった問題があります。それは、「新聞+テレビ」=「第四の権力」という事態です。自由な言論空間を守るための措置が真逆の状況を生み出すことになります。

(「note」)

 制度の結合が生んだ「情報の集中」

再販制度によって新聞社の経営基盤は盤石となり、結果として新規参入の障壁は極めて高くなってしまいましたこうしてプレイヤーが固定化された新聞業界に対し、戦後の放送免許が優先的に割り当てられたことで、新聞とテレビが同一資本のもとに統合される「クロスオーナーシップ」が確立したのです。

さらに見逃せないのが、官僚機構との根深い結びつきです。戦後のメディア経営には官僚出身者が深く関与し、姻戚関係を通じて政治・行政との強固なネットワークが築かれてきました。この人的結合は、法的制度以上に強固な岩盤構造を生み出しているのです。その象徴が、読売新聞中興の祖・正力松太郎(1885–1973)です。内務省出身のキャリア官僚であった彼は、1924(大正13)年に経営難の読売新聞を買い取ります。その後、彼の長女と結婚し社長の座を継いだ小林與三次もまた、内務官僚出身でした。このように、メディアのトップ層が極めて狭い特権階級の中で循環し、互いの既得権益を守り続けてきたのが実態なのです

一見、多種多様なメディアが存在し、自由な言論が交わされているように見えるかもしれません。しかしその実態は、情報の源泉も、それを操る人間も同質化しており、結果として似通った論調が反復される傾向にあります。つまり、「多様性を守るための制度」が、皮肉にも「情報の集中と同質化」を招くという、深刻な逆転現象を引き起こしているのです。

(「選挙ドットコム」)

 見えない権力「情報統治」の正体

このようにして形成された構造は、単なるメディア経営の問題にとどまりません。それはむしろ、国家統治の不可視で不可解な部分として機能している点にあります。本来、権力を監視する役割を担うはずのメディアですが、現実には世論の方向性を整え、既存の政策枠組みを追認し支える装置へと変質してしまっています。ここで重要なのは、「誰が支配しているのかが見えない」という点です。新聞は民間企業であり、テレビは免許事業であり、官僚は行政主体です。これらは別個の存在ですが、実際には制度と利権を通じて密接に依存し合い、強固な単一の情報空間を形成しています。本稿ではこのような状態を、「情報統治」と呼びます。

こうした「ぬるま湯」の構造は、メディアから2つの決定的な視点を奪い去りました一つは、事象を歴史や社会の大きな流れの中で捉える「マクロの視点」です。そしてもう一つは、現象の背後に潜む「構造的な原因」を洞察する力です。目先の出来事の表面をなぞるだけの薄っぺらな記述に終始し、本質に切り込むことを忘れた記事が、読者の心を動かすはずがありません。現代の「新聞離れ」は、こうしたメディア側の思考停止が生んだ必然の結果ともいえるのです。 

本来、自由を守るために設計されたはずの制度が、皮肉にも自由を檻の中に閉じ込めてしまい、言論を同質化させてしまっています。これこそが、日本の情報環境の核心です。例えば、アメリカでは再販行為は「ケースバイケースで判断(合理の原則)」されますが、日本では原則禁止としつつ、特定の著作物だけを法律でガチガチに守って聖域化するという、世界でも珍しい「日本独自の硬直的な運用」になっています

2人の会話にあるように、その日の朝刊を夕方以降に割引販売しても良いのです。そのことで新たな読者が獲得できるかもしれません。買い手,売り手両方にメリットがあります。しかし、制度があるために出来なくなっています。新聞業界は「定価販売」というドグマを頑なに守ろうとして、自ら変化の芽を摘んでいます。自らの“商品”ですら自由な発想や市場原理に基づく販売が出来ない業界が、自由な発想で記事を書くことなどできないと思っています。この硬直性こそが、今、日本の言論界の首を絞めているのです。

(「タイアンドギー」)

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