「終戦記念日が近づいてきましたね」
「日本が始めた戦争、その戦争に敗けて、戦争が終わった。それを記念日と呼ぶことに違和感をもっています」
「敢えて弁護すれば、その日を境にして戦火を交えなくても良くなったことは確かですよね」
「それは喜ばしいことだから、それを記念するという理屈なんでしょうね」
「そういうことなんでしょうが、少し無理があることは確かです。あなたの違和感というのも理解できます」
「あと、戦争の名称が定まっていないのは、何故ですか?」
「今日はなかなか厳しい質問をしますね。内角胸元への直球という感じです。実はそこがある意味、先の戦争の問題点だと思っています。いろんな名称が出ていますよね」
「太平洋戦争、日中戦争、大東亜戦争、第二次世界大戦。こんなもんでしょうか?」
「私の両親は大東亜戦争と言っていましたね。ただ、学校の先生は太平洋戦争と言っていたので、どっちなんだと思ったことはあります」
「私は学校では、第二次世界大戦で習った記憶があります。大学に入って歴史学の先生は日中戦争と言っていましたね」
「先の戦争から3/4世紀経ちますが、実はまだきちんと総括されていないと思っています」
「だから、いろんな名称が飛び交っているのですね」
「そろそろ名称も含めて、戦争の原因や戦争に至るまでの流れ、何故あそこまで大規模になってしまったのか等、解明する時代だと思っています」
「ここからが本論です ↓」
複合戦争という捉え方
『大東亜戦争』(新潮新書、2021年)によると、先の戦争を4つの戦争の複合として捉えるべきだろうと主張をしています。日米戦争、日英戦争、1937年に始まる日中戦争、終戦前後の日ソ戦争です。最後の日ソ戦争という捉え方については、きっと賛否両論があるのではないかと思います。
4つの戦争の中に大東亜戦争は入っていません。何故なのかと言いますと、もともと「自存自衛」のために始めたのが今回の戦争です。大陸や半島における権益を守るために日中戦争をし、日本の補給ルートを守る為に英米と戦争を始めたというのが大義名分だからです。
(「Twitter」)
「大東亜新秩序建設」が大東亜戦争の根拠
「大東亜新秩序建設」が大東亜戦争の根拠ですが、当初から掲げたスローガンではありませんでした。悪い言い方をするならば、取って付けたスローガンだったのです。
アメリカとの開戦直後の帝国議会(1941年12月)で、東條首相は「東亜の解放」を議会で訴え、それが議会で承認されることになります。
それを受けて、1943年11月に東條内閣は満州国、南京国民政府、ビルマ、フィリピン、タイの代表を東京に集めて大東亜会議を開催し、そこで大東亜共同宣言の文書を採択します。これが大東亜戦争のネーミングの由来です。
国内的には通用しても、対外的に説得性をもつものではありません。教科書に載らないのは、そのためです。
(「jugyo-jh.com」)
奇妙で支離滅裂的な動き
先般の戦争について調べれば調べる程、支離滅裂的であったことが分かります。負けるべくして負けた戦い。負けるために戦争をしたようなものです。
そもそも戦う日本側が一つに纏まっていませんでした。陸軍と海軍は対立関係にあり、実際の戦闘においても、海軍は太平洋を舞台にしてアメリカと戦い、陸軍は主に中国や東南アジアを舞台に、お互い背中を向けて戦っています。
乱暴な言葉で言えば片手間で戦っているようなものです。日米開戦時の経済指標(OECD統計)を調べてみるとアメリカは約1兆1千億ドル、日本は2045億ドルで1/5位です。経済規模と軍事費は比例すると考えて良いので、5倍の兵力の国を相手に海軍だけが専ら相手をして戦っていたのです。緒戦は勝ったものの、アメリカは体制を立て直して反撃に出ます。ミッドウェー海戦が一つの契機となります。そこで惨敗をして、その後日本軍は兵力に勝るアメリカに押し切られます。
何故、このような無謀とも思えるような戦争をしたのか。そのことについて、現在なおきちんと分析されている訳ではありません。失敗から学ぶという言葉があります。失敗の原因分析が必要です。特に、軍部が政権を握るまでの過程から戦争突入までの科学的な分析が必要です。次回は、その辺りについて私見を述べたいと考えています。
(「gakuen.gifu-net.ed.jp」)
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