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「日本のかたち」をどう教えるか ―― 中央集権史観を超えて / 明治維新を断裂と考えるべき

女性

「小学校の社会科ですが、従来とは違い、政治の勉強をしてから歴史を勉強するようになったそうですね」

「「小学校学習指導要領」が2017年に告示され、それに伴って、小学校社会科第6学年における学習の扱い順序が 「政治 → 歴史 → 国際」 という順序に変えられました。ただ、授業としては、2020年度頃から実施されています」

女性

「そのように変更したのは、どうしてですか?」

「建前的な理由はいくつかありますが、要するに、最初に日本が「中央集権国家」であることを意識させたいのではないかと思っています」

女性

「その理由は何ですか?」

「中央政府(国)からの法令・予算・人事の統制のもとに動いているという現実に気づかせながら、正当な流れを持った政権であることを教え込みたいのだと思います。ただ、私に言わせれば、順番が逆です」

女性

「逆とは?」

「スポーツでもそうですが、まず基本形を教える。歴史を学ぶ意味もそこにあります。古代の先人たちが苦労して日本はこういう国だから、こうやって治めようと辿り着いた結論・制度があるのです。天武期に地方分権をベースにした律令制が作られます。まず、そのかたちを学ぶことを最初にすべきです」

女性

「日本書紀、古事記が編纂された頃ですね。ただ、下手をすると、学ばないまま終わってしまいます」

「今の官僚国家はそこを狙っているのです。彼らからすれば、そのための教科書検定だと思っているでしょう」

女性

「臭いものにフタの発想ですか? ここからが本論です ↓」

 「日本のかたち」とは何か

「日本のかたち」とは何か。言い換えると国体ですが、それは単なる国土や国民の総称ではなく、古代から連綿と続いてきた統治と文化のあり方を指します聖徳太子、天智天皇、天武天皇に至る約百年間、日本は国家としての枠組みを形成しました。国号「日本」が定まり、それまでの大王(おおきみ)から「天皇」という称号になり、律令制が整備されました。この律令制は、現代的にいえば地方分権制度です。中央がすべてを命令するのではなく、各地の豪族に統治を委ね、租庸調を通じて国家を維持する――いわば「シラス(知らす)―ウシハク(領く)」の統治原理に基づく体制でした。

この「シラス」とは、秩序を知らしめるという意味です。支配・命令を意味する「ウシハク」とはある意味、対照的な概念ですが、その2つを対にして考える必要があります。簡単に言うとシラス者の天皇とその時時の統治者の「二人三脚」で統治を行うシステムです。律令制以降、鎌倉・室町・江戸の時代においても、この「二人三脚」統治は形を変えながら続きました。幕藩体制はその最終形態であり、藩という地域共同体が文化・経済・教育を自立的に担っていました。農村・城下町・寺社・町人社会がそれぞれの秩序を持ち、全国は「小さな日本」の連合体として成り立っていたのです。

それを次々と解体したのが明治以降だったのです。象徴的な事件が廃仏毀釈であり、廃城令です。国宝級の寺や仏閣が破壊され、多くの城が破壊されました。薩摩藩内の寺は1,700位あったのですが、すべて破壊されました。城は全国に300以上あったのですが、170位壊されています。現在残った城は、地元の篤志家が私財を投げうって購入したり、地元民が懇願したりして残ったものです。アフガニスタンのタリバンも驚くような文化財破壊活動が明治政府によって大規模に行われていたのです。

(「週末はじめました」)

 明治維新を断裂と考えるべき

律令制度に基づく約千百年にわたる「分権日本」の流れは、明治維新によって完全に断たれました。廃藩置県は単なる行政改革ではなく、地域の精神的・文化的基盤を破壊した国家改造でした。中央が人事・財政・教育を独占し、地方は国の下請け機関へと転落したのです。

近代国家の建設を名目に導入された官僚制と中央集権体制は、西欧社会の模倣にすぎず、日本の伝統的統治原理とは無縁のものでした。伊藤博文が構想した明治憲法は、「天皇之を統治す」という絶対主義的表現で固定し、議会を協賛機関としました。協賛機関というのは、付録機関の意味です。帝国議会の会期はわずか90日(3か月)です。議会制民主主義を発展させる気持ちなどなかったことがこれだけで分かります。官僚と軍人が自由に政治を操るための憲法が制定されただけだったのです。立憲主義を採用したとは、とても言えないと思います。

この構造は戦後に至っても根本的に改まることはありませんでした。憲法が主権在民を掲げても、行政組織と財政制度は旧来の中央集権型を温存したままです。敗戦後に解体された省庁は、陸軍省、海軍省、内務省の3つだけです。大蔵省、文部省についてはGHQは迷った挙句に安定統治を考えて解体しなかったのです。

日本の政治体制は、今もなお「議会制民主主義の皮をかぶった官僚的中央集権国家」です。明治維新は転換点ではなく、大きな断裂があったと捉えるべきです。日本であって日本でない時代がそこから始まっています。それまで中国や朝鮮に対して友好的であった日本が、差別的な言葉を国内に撒き散らしながら急にキバを剥き始めたのもそのためです。そこから今日までの約160年は、日本史の中ではむしろ「異質な時間」として位置づけられるべきでしょう。

 日本のかたちを知り、後世に伝えることが求められている

学校教育はこの断絶をどのように教えるべきでしょうか。今日の社会科教育は、明治維新を「近代化の出発点」として称え、中央集権体制を進歩として描いてきました。しかし、それは「日本のかたち」を根底から誤解させる教育です。明治以降の日本は、地域社会を切り離し、文化の発生源を失いました。明治以降、地方が生み出した文化的創造はほとんど存在せず、近代文学・近代美術・アニメといった個人の能力に依存した文化が生み出された程度です。近年、多くの外国人観光客が日本的なものを体験したいと言って来日しますが、彼らの求めている日本文化は殆どすべて明治維新以前の律令の千百年間で生み出されたものです

本来、社会科教育とは、正しい歴史を教え、自分の生まれた国がどのような国なのかを認識することがスタートでなければなりません。聖徳太子の十七条憲法に見られる「和を以て貴し」は、単にみんな仲良くという意味ではなく、家族主義的国家観を説いています。西欧の社会契約的な発想ではなく、統治者が民を我が子のように思い治めなさいという教えです。その具体例が『古事記』の中の仁徳天皇の「民のかまど」の話(下の絵)として載っているのです。

「日本のかたち」を教えるとは、明治以降の中央集権史観を超え、千数百年にわたる分権と共存の知恵を再発見することです。日本史を教えるとは、正しき日本のかたちを教えることに他なりません。教科書に書いてあることを盲信するのではなく、「どのような日本を未来へ継ぐか」を絶えず考えて欲しいと思います。明治以降を無批判に継承するのではなく、古代から江戸に至る本来の日本的秩序を回復する知的作業こそが、教育の使命であり、それは全国民に課せられたものだと思っています。

次回は、官僚的中央集権国家の現代の一断面について語りたいと思っています。

(「note」)

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