「前回のブロクの中で国家の話をしましたよね。余り今まで考えたことがなかったものですから、いろいろ考えることがありました」
「国家とは何かとか、国家と国の違いとか、普段は余り突き詰めて考えていませんからね」
「授業で「朕は国家なり」と言う言葉を習った覚えがあります」
「フランスの太陽王と言われたルイ14世の言葉ですね。絶対王政期の国家観を表す言葉として知られています」
「この延長線に『檻の中のライオン』(前回ブログ参照のこと)があると思いました」
「ライオンを国家に準えた絵本の話ですね。檻の中に閉じ込めておけば良いというのは一面的な考えだということは、その時に言った通りですが、その考え方は西欧から来たものなのです」
「じゃあ、日本はどういう国家観だったのですか?」
「日本の国家観は「ライオンとお友達」というものです」
「檻の中に閉じ込めなくても良いのですか?」
「日本の統治者が自国の民にキバを剥いたことはありません。一番分かりやすいのは、皇室の歴史を辿ることです」
「皇室とヨーロッパの王室の違いは、権力を振るったかどうかだ、と習った覚えがあります」
「日本の国家、つまりライオンは古代の一時期を除いて、国民にその権力を振るったことはありません。日本の国家観は家族主義的国家観というものです。天皇は国家という大きな家の長という捉え方です。国民ではなく、臣民として同じ家に住む一員なので支配する必要もないということです。そういった発想は、西欧諸国にはないと思います。その国家観を西洋の法概念を使ってどう表現をしたら良いか、明治の為政者は随分悩んだようです」
「ここからが本論です ↓」
目次
国家を弁証法的に捉える必要あり
共産系文化人は弁証法的唯物論こそ科学だと言いながら、国家に対してなぜ皮相的な見方・捉え方をするのか、といつも思っています。すべてのものは、相反する矛盾の統一物として捉えなければいけない、というのがヘーゲル弁証法の教えです。であれば、有機物としての国家を二面的に捉える必要があると思います。
百地章氏は「『国家』という場合には、歴史、文化、伝統を共有する『国民共同体としての国家』を指すことがあります。『国を愛する』とか『国家を守る』という場合の『国』や『国家』がそれです。そして、これこそが本来の『国』、本当の『国家』です」(『日本国憲法八つの欠陥』扶桑社新書、2021年/256ページ)と言います。
「ライオン」は2つの顔を持っていますので、檻に入れる時と、檻から出して可愛がってあげる時があるのです。そして、百地氏は、後者の時が「ライオン」本来の姿だと言っています。
「ライオン」は2つの顔を持つ――国家も2つの側面がある
本来の姿と言いましたが、両者は同じライオンの2つの「側面」ですから、切り離すことは出来ません。有機的に繋がっているので、国家の役割もそのように考える必要があります。
檻に入れなければいけない程の強い力を発揮する場面は、国防と国内の治安維持です。これが、時には暴走することがありますので、扱いに於いて注意が必要です。ただ、強い力を持つこと自体が危険ではないのです。その強力な力が度を超して他国や自国の国民の人権を侵害することが危険なのです。要するに、「強い力」+「人権侵害」がある恐れがある時は、檻に入れるということだと思います。
ロシアによるウクライナ侵攻が良い例です。ロシアに対する脅威を取り除くためと言いながら「ネオナチ」を合言葉に軍事侵略をしています。かつての日本も軍部が権力を掌握して、大東亜共栄圏というスローガンのもと軍事侵攻をしたこともありました。
そういう時は、国家は国内においても暴れます。昨日、香港の統治についてニュースが流れていましたが、今年で中国に返還されて25年になるとのこと。かつての香港と今の香港。表面的には市民生活は穏やかですが、水面下の取締りは厳しいものがあるでしょう。日本はかつては治安維持法(1925)によって言論統制を行いました。中国は香港に対して「香港国家安全維持法」(2020)を制定しました。
(「123RF」)
「檻の中のライオン」という設定自体が誤り――その誤りが「日の丸」、「君が代」反対に繋がっている
日本がどの国とも交流する必要がなく、鎖国状態ならば常に「檻の中のライオン」状態で良いと思います。ただ、現代はそういう時代ではありません。世界の多くの国と様々な付き合い、そして交流をしていかなければいけません。ただ、その世界が「お花畑の世界」であれば良いのですが、一触即発の戦国時代のような様相を呈しています。
ライオンを檻の中に入れておいただけでは、隣国からの攻撃があった場合は、その能力を活かし切ることが出来ません。そもそも、ライオンとして育てたのは、いざという時のために国を守るために力を発揮して欲しいということのはずです。そうでなければ、別にライオンを飼う必要がないのです。危険だ、ということで常に檻に入れておかなければいけないのならば、ライオンの代わりにニワトリで良いのです。エサ代がないならば、檻の中は何もなくても良いのです。
ここまで書いてくると、『檻の中のライオン』という場面設定自体がおかしいことが分かると思います。国家はライオンで良いのですが、時には檻から出してエサを与えて可愛がってあげるということが必要だということです。
日本の左翼政党やマスコミの対応は、ライオンは怖いので閉じ込めておけば良い、いわゆる立憲主義によって国家の監視の面だけが強調されてきました。その影響を受けて、ライオンを讃え、エサをあげる行為に準えることができる「日の丸」や「君が代」は罪悪視されました。そろそろ、そのおかしさに気が付く頃だと思います。
世界には多くの国があります。その国を尊重する証が、国歌の吹奏と国旗の掲揚です。外国の来賓を迎える時や、国際大会で普通に行われます。日本では、ライオンにエサをあげて仲良くなることが大事だと教えていないので、「日の丸」や「君が代」に対して敵視をする輩が出てきてしまうのです。
世界広しと雖も、自国の国旗や国歌を敵視して、教員が訴訟を起こすような国はどこにもありません。そして、それを応援するような政党が議席を持っているような国はありません。有権者の賢明な判断が問われる時代です。
(「スポーツ報知」)
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