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21世紀の大学の在り方を考える(1) ―— 日本の大学は教授ありきでスタート / 地域に開かれた大学の創造を

女性

「世界大学ランキングなんていうのが、あるんですね」

「イギリスの教育データ機関が毎年発表しています。日本人は、こういうランキングが好きなので、新聞はすぐ報道します」

女性

「日本の大学が何校入ったか、一番の上位校はどこか、気になります」

「意味がないのではないかという意見もありますが、私も余り気にしなくても良いと思いつつ、気にして見ているという感じです」

女性

「昨年度と比べて、日本の大学がランキングを上げたということで少し話題になっていました」

「東大29位、京大55位、東北大130位でした」

女性

「アジアでトップは、やはり中国ですか?」

「そうですね、清華大12位、北京大14位です」

女性

「日本の大学当局者はランキングをどのように捉えているのですか?」

「かなり重要視していると思います。受験生へのアピール、社会的な名声にも繋がりますからね。文科省もかつては21世紀COEプログラム、最近では10兆円ファンドということで大学のレベルを上げるために資金をつぎ込もうとしています」

女性

「ただ、お金を出せばランキングが上がるという訳では、ないですよね」

「そうとも言えるし、ある程度、連動しているとも言えます」

女性

「ランキングも金次第ということですか。ここからが本論です ↓ 表紙写真は社会に開かれたキャンパスづくり「竹中工務店」の提供です」

 「10兆円フアンド」は国が間に入って大学に資金提供する仕組み

今から約20数年前に日本経済研究センターが「アジア・日本の潜在競争力」という報告書を出したのですが、その中でIT化指標、教育指標、そして総合指標いずれの分野においても今後順位を下げ続け、このままではアジアで最下位になってしまうという警告を受けます。その一つの理由が、政府の教育関連支出の低さです。

少し慌てた文科省が打ち出した政策が「21世紀COEプログラム」でした。COEというのはCentury(世紀)、Of、Excellent(秀でた)の略で、国際的に最高水準の大学づくりを目指す計画でした。具体的には、人文・社会科学から自然科学まで10分野について、各大学から戦略的な方針を具体的に提出してもらい、その内容を審査して成果が上がると見込まれるものに対して研究活動費を支給するというものでした。

COEプログラムは約10年行い、そして昨年、国が打ち出したのが「10兆円フアンド」です。世界トップレベルの研究水準を目指す大学を長期的・安定的に支援するために政府が創設したフアンド(基金)です。かなり思い切った額だと思いますが、各大学から応募してもらい「国際卓越研究大学」に認定されれれば、1校当たり数百億円単位の支援を受けることができます。日本は大学も含めて、教育関連予算が少な過ぎです。例えば、ハーバード大は4.5兆円の基金、ケンブリッジは1兆円の基金があります。その運用資金が大学の予算となる仕組みです。それを日本で採り入れることは出来ないという判断なのでしょう。国が間に入って面倒を見ようということです。

(「日本経済新聞」)

 日本の大学は教授ありきでスタート

そもそも大学とは何なのか、といった根源的な問い掛けがなされることがあります。ヨーロッパ中世に起源を求めることができます。「少数の学生が教師をやとい、学問への共通の情熱で結ばれた学徒のいわば村落共同体」(喜多村和之『大学は生まれ変われるか』)が始まりです。その頃は、「固有の建物」もキャンパスも持っていなかったのです。

学問をしたい者とそれを教授する者の共同体が大学の始まりですが、日本の場合は、人材育成のために大学(帝国大学)をつくります。1886(明治19)年に「帝国大学令」を制定しますが、その当時は東京帝国大学しかありませんでした。1897年になってようやく京都帝国大学が2番目に創られます。

帝国大学令には、その目的として「国家ノ須要ニ応スル」人材の育成とあります。ヨーロッパのように、学生と教師が対等な契約関係を結ぶ中で学問・研究の場として発展したのではなく、最初に教育・教授ありきでスタートしたのです。だから、日本では大学というのは、教授がまず講義をして、学生がそれを聴いて理解する場として捉えられたのです。

(「講談社BOOK倶楽部」)

 21世紀の大学の在り方を考える

ピーター・ドラッカーはITが登場したことを受けて「これから30年後には、巨大な大学キャンパスは廃墟となり、大学は生き残れないだろう」と予言します。インターネットという誰でも気軽にアクセスできるオープンツールの出現により、今までのように「権威」を保持できなくなるだろうという理由ゆえの予言だと思われます。

廃墟というのはオーバーだとは思いますが、社会や学生との新しい関係を構築する努力を始めなければ発展はないと思っています。2003年に「国立大学法人法」を制定して法人化を実施しましたが、「21世紀型の大学」を国立大学がまず先陣を切って、自由な発想で創造して欲しいという狙いがあったのです。広いキャンパスを利用して市民との交流会、市民が参加できる講演会、企業との共同研究など、大学の施設とそこに集う人材を積極的に活用して新たな大学像を模索する動きを期待していたと思われます。

「国立大学法人法」が出来て約20年ですが、国立、私立を問わず、大学は相変わらず閉鎖的に見えます。一般の市民は気軽に大学の中に入れません。大学の図書館も利用できません。そんなに敷居を高くする必要があるのでしょうか。大学の教授は研究室と講義室に閉じこもるのではなく、自分の研究を社会の人たちに簡易な言葉で教え広める努力を開始すべきだと思っています。国大協のスローガンは「地域と国の発展を支え、世界をリードする国立大学」です。地域が一番最初に掲げられていますが、地域に目を向けているとはとても思えません。下のポスターは岡山大学ですが、こういった動きはまだまだ少数派だと思います。

(「愛媛新聞ONLINE」)

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