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昔の教科書と今の教科書の違い|戦後75年間の公教育の中で形成された「プロトコルの脱落(drop out)」

  • 2020年3月10日
  • 2020年3月11日
  • 教育論
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(この文章は3/10日に書いたものです)

 プロトコルとは?

プロトコルという言葉を知っていますか?
螂ウ諤ァ
プロだと、肩が凝る。字余り……。
つまらない、ダジャレはやめなシャレ。(しばらくの間)。最近は、ITの世界でよく使われるようになったのですが、もともとは命題、協約、協定といった意味として使っていました。
螂ウ諤ァ
それが昨日の話と何か関係があるのですか?
プロトコルの脱落(drop out)」といった言葉が思い浮かんだのです。
螂ウ諤ァ
何かが抜け落ちてしまうということですね。
何かの結論を導き出す際に、本来ならば大前提として組み込まなければいけない命題あるいは約束事を入れなかったということです。
螂ウ諤ァ
段々、意味が分かってきました。ただ、どうしてそういった大事なことを最初に忘れてしまうのですか?
一種の先入観みたいなものが働いてしまうのだと思います
螂ウ諤ァ
それは、個人のレベル、それとも組織のレベルで起こるのですか?
どちらも起こりますが、硬直化した組織ほど起こりやすく、それが長引く傾向にあります
螂ウ諤ァ
集団であれば、お互いにチェックし合えると思うので、先入観などは起こらないと思うのですが……。
そこが不思議なのですが、一種の共鳴が働いて、先入観が強固になってしまうということだと思います。
螂ウ諤ァ
何となく抽象論になっていますが、もう少し具体的にお願いします。
例えば、昨日の例で言うと、憲法とくれば、〇西洋近代憲法 ×憲法十七条、といった判断。あるいは、古代の憲法だから、天皇の命令に従えと書いてあるんだろう、みたいな先入観が学会全体に広がるということです




 戦後75年間の公教育の中で形成された「プロトコルの脱落(drop out)」

戦争が終わって75年、いつまで戦後という言葉を使い続ければ良いのでしょうか。この言葉を使っている間は、プロトコルが脱落したままで、人々は思考することになるのではないかと思っています。現在の日本の危機は、日本人の多くが公教育の中で知らず知らずのうちに植え付けられた先入観の結果、引き起こっていることが多くあると思っています。

やはり敗戦ということが大きかったと思います。戦後、GHQの意向により現在の憲法が制定されました。平和憲法との刷り込みが、明治憲法を脇に置き、憲法十七条は史実として論じるものであって、憲法史の中で論じるものではないという、そのような「プロトコルの脱落」が教科書を使って行われました。

一つの王朝と考えた場合は、憲法十七条(604)、明治憲法(1889)、日本国憲法(1946)を連続的に考える必要があります。ところが、そのような視点から論じている教科書も憲法の基本書もありません
『公民』の教科書を見ると、明治憲法と日本国憲法を比較する形での記述となっています。やはり、憲法十七条は登場しません。中学や高校の『歴史』の教科書は、その三つの憲法を扱っていますが、特に連続性を意識した記述はありません。

敗戦があったものの、日本の国は古代より連綿と続いていて、その歴史の中で作られた憲法である以上、それらを統一的に解釈する必要があるでしょう。昨日のブログでその作業のほんの手始めを行いましたが、そこで確立された基本的な統治の原理は、現在も日本国憲法の中に生きています。

 天皇は飛鳥の時代から国家の象徴であった

憲法十七条と明治憲法の関連性については、近々発行される『日本』という雑誌に論文を掲載する予定でいますので、またその時にご案内を致します。
ところで、憲法十七条で聖徳太子が描いた国家観は、実は現在の日本国憲法に受け継がれています。7条、10条の規定を読むと、天皇も民衆と共に歩むべきという考えが見受けられます。ただ、本人の立場(摂政)ということもあったのか、天皇のポジションが固まっておらず、まだ萌芽段階であり、模索をしている段階です。この後、大化の改新を経て、天武天皇の頃に象徴天皇の原型がほぼ出来上がります。そして、その原理(「しらす・うしはく」の原理)を『古事記』神話の中の物語に込めています。

日本の天皇のあり方は、諸外国の王制と比べてもきわめて特異なものである」(今谷明 『象徴天皇の源流』) として、その特異さの具体例として、男系王朝が長く続いていることと、「千年も以前から『不執政王』が伝統となっていたこと」(今谷明、前掲書)の2点をあげているのが今谷明氏です。この「不執政王」というのは、権力を振るわない権威者としての天皇ということですが、言葉を変えれば「しらす(治らす)」者、つまり象徴としての天皇ということです

中学の歴史教科書(東京書籍)を見ると、「中国や朝鮮に学んで大王(天皇)を中心とする政治制度を整えようとしました」とありますが、単純に真似るつもりはなかったと思います。特に、大きな影響を与えたのは、隋の滅亡(618年)でしょう。巨大な権限をもった王朝の滅亡を間近に見てそれなりのショックを受けたと思います。当然、国家のあり方、大王(天皇)のあり方について考察したと思います。

聖徳太子の思いや和の精神が、時を超え時代を超えて、明治の時代、さらには令和の時代まで受け継がれていくことになります。太子は天皇を中心にしたまとまりのある国家、つまり和の国家を目指していたのですが、その思いが世界でも類を見ないような皇統の歴史を築いていくことになります

明仁上皇が譲位の時に「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として,これを守り続ける責任に深く思いを致し,更に日々新たになる日本と世界の中にあって,日本の皇室が,いかに伝統を現代に生かし,いきいきとして社会に内在し,人々の期待に応えていくかを考えつつ,今日に至っています」と述べられていますが、そのお言葉の中に飛鳥の時代から現代までの時間の重みが含まれています




 お粗末な小学校社会科の教科書

知り合いを通して、小学校の歴史の教科書(6年上)をお借りして中を見てみました。カラーの写真やイラストがふんだんに使われていて、歴史に興味を持ってもらおうという努力は感じられますが、内容が少なすぎて物足りません。

「調べ学習」が多すぎます。歴史を習い始めてわずかの段階で、材料(文章)もないところで調べることを課すのは無責任です。そして、小学生が調べて分からないような大きなテーマを課していますし、社会の場合は、見方や立場によって様々な答えがあります。それを教員が受け止めて小学生に指導しきれないのではないかと思います

例えば「聖徳太子はどのような世の中をつくろうとしたのか」です。これを説明するためには、少なくとも800字位は必要です。それから「伊藤博文は、どのような思いをもって大日本帝国憲法をつくったのか」という教科書の問いがありますが、これについては何故か教科書に「伊藤博文は、皇帝の権力が強いドイツの憲法を学んで帰国しました」と書かれています。これを読んで「皇帝の権力が強いドイツのような日本になって欲しいという思い」と書いた場合は、どう評価されるのでしょうか。ちなみに、天皇は歴史上、エンペラーになったことはありません。子供に誤解を植え付けることになりかねません。

理科の調べ学習と同じ感覚だと思います。歴史を見る目が殆ど育っていない段階の歴史の調べ学習は、時間の無駄だと思います。それより分かっている人が、きちんとした通史の教科書を作成して、それを教えることだと思います

手元に『初等科国史』(復刻版)があります。昭和19年4月から授業で使われていたものです。約250ベージの分量で1939(昭和14)年までを扱っています。それに対して、現在の小学校の歴史教科書は150ベージの分量で1989年まで扱っています
歴史というのは、淡々と時間を刻む様に流れていく訳ではありません。時には重く、時には軽く進みます。時代の節目となった事件や人物がいます。そして社会事象は因果関係の連鎖で繋がっています。それが読んで分かるように記述しないと、理解できませんし、そういうものであれば調べても分かります。内容がない教科書は調べても分かりません
例えば、聖徳太子についての記述は『初等科国史』では、5ぺージびっしり使っています。現在の小学校教科書が3ページです。ちなみに、中学歴史教科書は1ベージ、高校山川の教科書は9行です。

読んで頂きありがとうございました




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