「9月入学説について、新聞各紙が特集を組んでいますね」
「前にも言いましたように、ある年度の定員がかなり偏ります。9月入学説は無理筋です。もし強行すれば、長期間にわたって現場にかなりの混乱をもたらします」
「もともと、発想が安易でしたよね」
「このままコロナが終息しなかったら、どうしようか。学校はどうしようか。そうだ、9月にずらすという手があるじゃあないか、というノリでしょ」
「マンガの世界ですよね」
「真面目な顔をして言うから、笑ってしまいます」
「『読売』が世論調査をしていますね。54%が賛成とのことです」
「そもそも、世論調査をするような問題ではありません。当事者とそうではない人とは、意識がかなり違うからです。そして、制度的に複雑な問題が入り混じっていますので、これを2者択一のアンケートで答えさせようとするのは無理があります。9月入学どうですか、と聞かれれば、特に関心がなければ、いいんじゃあないと答えてしまいます
「経済界は歓迎と言っています。9月入学がグローバルスタンダードという意見も紹介されています」
「勝手に基準を設けて、それに合わせろというのは暴論です。であれば、4月入学をグローバルスタンダードになるように、これから世界に働きかければ良いという話になります。ましてや、時代はもうグローバル化の時代ではありません。アメリカが完全に中国に切れています。今の時代、風向きは急に変わります。気を付けていないと、波に乗れないですよ」
「それなりの理由があって、長年4月入学としてきたので、やはり変えるためには、日本国内においてそれなりの理由が欲しいですよね」
「あなた、良いこと言いますね。同感です。明治の時代から、桜の木の下で入学式を重ねてきたのです。それをコロナ騒ぎがあったから9月に変えたよ、そんな軽いノリでは、ご先祖様が「ガクッ」と来ると思いますよ」
「日本人は桜と自分の生き方を重ねてきたようなところがあると思います。日本人は式を大切にしてきた民族です。たかが入学式、されど入学式なので、私はこだわりたいと思っています」
「それが普通の感覚だと思います。先ほど54%という数字を聞いて、ちょっとショックですね。仮に9月に移行した場合、ますます日本が日本でなくなるような感じがします」
「「9月入学じゃあ、ピンと来ないですね。中秋の名月の頃ですね」
「俺は河原の枯れすすき♪ と歌いながら入学するのですか?」
「いやだ、いやだ、やっぱり合わないわ」
今年の「9月入学」は不可能、文科省に欲しい「鶴の一声」
どさくさ紛れに9月入学に移行しても上手くいくはずがありません。もし、どうしてもというのであれば、5年位の長期計画で行う必要があります。それならばできますが、ただ、その場合でも、国民の広範な同意が必要だと思います。その位、周りに及ぼす影響が大きい問題です。1年で急に変えるのは、現実的には無理です。仮にもし強行した場合は、現場にかなりの混乱が起きます。その辺りのことについては、前に書いたブログを参照して下さい
そして、今の動きを見ていると、9月入学となれば後4か月勉強しなくて済むという生徒の思いと、オンラインで授業をしている学校と差がついてしまって可哀そうという親側の心配がタイアップし、そこに経済界の要請が乗っかかって進行し、文科省はそれを見ながらどうしようかと思っているような状況だと思います。マスコミはそれらを見て、賛否両論併せて報道しているというのが今の図式です。
マスコミの方々に言いたいのは、報道すればするほど子供たちは期待するということです。客観的には、9月入学に向けて、煽ることになるだけです。どういうことか。入学や始業式が9月に伸びるとなれば、別に今は勉強しなくても良いのではと思う児童、生徒、そして親が必ず出てくるからです。
人間は本来自分に都合よく世の中の動きを解釈する傾向があります。大人ですらそうです。今まで教育について何も考えていなかったくせに、急に9月入学と口角泡を飛ばして言う様を見ているとあきれます。勝手に政治問題にしないで欲しいと思います。
文科省は仕事をして欲しいと思います。「9月入学」については今後の検討課題ですが、「今年度については、9月延期はありません」と一言言って欲しいと思います。それがないので、マスコミが動き、それを見て生徒や親が揺れ動き、その僅かな「夢」に期待をして勉強もせず、ただ無為な日々を自宅で過ごす子供たちが多くいるのです。
21世紀の国際競争時代に、有為な若者にモラトリアムを与える必要はありません。緩(ゆる)めば弛(たる)みます。「休んだ分を頑張るよ」と、逆に危機感を煽って、追い込む位のことが必要だと思います。「コロナがあるから、危ないのよね、お勉強もゆっくりして良いのよ、スタートラインを9月にしたからね、これで大丈夫ね」。お花畑の世界に生きている訳ではないのです。
9月入学より、教育の地方分権を進めるのが先
「休業緩和相次ぐ独自基準」。『産経』(5/12日付)が1面で報じています。この内容は緊急事態宣言の緩和について、各自治体が独自の基準で行い始めたというものです。
日本は憲法で「地方自治」を認めています。感染者にバラつきがあるので、当然そのようなことがあっても良いと思います。ところが、こと教育の分野になると話が違ってくるのです。十把一絡げの発想が大手を振って進軍しています。
神奈川県で感染者の少ない市町村の首長が、学校再開の要望書を提出したというニュースが流れました。出来るところから、再開すれば良いと思います。特に、公立の小・中学校の生徒は徒歩で通学をしています。大きな影響はないでしょうし、むしろ長期間にわたって家に待機させることの方が精神衛生上、さらには学力面、健康面でも大きな問題があると思います。それを見かねての要望書だと思います。
東京都でも感染者が多いのは23区内です。三多摩は一桁少ないのです。奥多摩は殆どいません。例えば、23区に比較的近い町田市や八王子市は感染者が現在において40人位しかいません。市の人口で割ると1万人に1人位の感染者です。市町村単位で学校再開をすれば良いと思います。今の状況を見ていると、コロナにかこつけて休校を長引かせている感じがします。
そもそも振り返って考えてみると、3月の上旬に唐突に全国一斉休校の要請が出ました。首相がそれを発するのは構わないと思うのですが、各自治体の教育委員会が単なる伝達機関になってしまいました。試験期間だったので、私学の中には馬耳東風で実施したところもあるやと聞いていますが、殆どの教育委員会が単なる行政の末端機関だということを改めて認識する機会となりました。
ただ、教育は個別具体性が求められます。教育現場は不登校や保健室登校、さらにはいじめの問題など様々な問題があります。それを細かく対応していくためにも、権限を地方の教育委員会に移譲し、その創意と責任において地方の教育営為を発展させることを考える時期に来ていると思います。
特に、これからの時代は、「金太郎飴」を大量に育成する発想から抜け出す必要があります。AIが考えることができないことをいかに多く産み出すかが勝負の時代です。文科省という一中央省庁に日本の教育を預ける時代ではありません。
遠隔授業や「飛び級」についての検討を
ここにきて遠隔授業のことが話題になり始めました。これを機に、不登校の生徒や保健室登校の生徒との遠隔授業のことを考えて欲しいと思います。現行法では「授業」として認められていませんが、今回のこともあり研究課題として欲しいと思います。
さらに「飛び級」です。戦前までは機能していました。特異な才能を社会全体で育てる態勢が必要だと思います。変に埋もれてしまっているというのが、現場にいる者の実感です。
囲碁の世界では10歳のプロ棋士が誕生しました。大人の棋士の中に交じって、遜色ない戦績を残しています。永遠の命があるのならば、別に急ぐ必要がないかもしれませんが、必ずどこかで尽き果てます。才能があるのに、発揮する前に寿命が尽きたのでは社会の損失でしょう。活躍できる能力があるならば、その子に場を与える。中には、いじめから逃れるために、必死で努力をし、才能を開花させる子がいるかもしれません。
海外留学というのであるならば、別に年度の途中で卒業させても構わないと思います。「特別留学制度」(仮称)あるいは「特別卒業制度」(仮称)を作れば済むだけの話です。何でも全てみんなと同じという発想をなくせば、いつ入学するということにそれ程こだわる必要がないと思います。経済界の発想は、少数の者に全体を合わせろという発想ですが、少数の需要のために制度を創り、全体は動かさないとするのです。
そしてそのように細かな運用をするためには、アメリカのように権限を地方に移譲することです。中央集権的な硬直した制度では上手く立ち回れませんし、実際にそうなってしまっています。これでは、時代が求める有為な人材は育ちにくいと思います。
実は明治維新期に有為な人材が多く輩出されたのは、江戸時代に特色ある教育が各藩で行われていたからです。松下村塾が有名ですが、そういった私塾、寺子屋、藩校などで多彩な教育が全国各地で行われていたのです。作家の司馬遼太郎は「この多様さは、明治初期国家が、江戸日本からひきついだ最大の財産」(『明治という国家』日本放送出版協会.76ページ)と評価しています。
付け刃的に9月入学を考えるのではなく、これを機にコロナ以降の新しい時代を見据えた教育のあり方を総合的に考えることが肝要です。
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