「『天皇の国史』という本をあなたに読んで欲しいと思って持ってきました」
「随分と分厚い本ですね。高かったでしょ」
「1800円ですね。だけど、2020年8月に発売されたのですが、現在8刷ですからね、売れ行き好評みたいです」
「著者は竹田恒泰氏ですか」
「明治天皇の玄孫にあたる方で、旧皇族の竹田家の血筋の方です」
「何となく、日本史に関する本がこの間、出版されているという感じを受けますけど……」
「この間の出版本で共通しているのは『日本史』ではなく『国史』、あるいは『国紀』という言い方を意識的に使っているのが特徴だと思います」
「『国紀』は百田尚樹氏ですよね。『日本国紀』買いましたからね」
「2018年ですね、出版が。『日本国史の源流』(田中英道著)が2020年、そして今あなたに紹介した『天皇の国史』が2020年です」
「日本の『国』にこだわった表題の付け方には、何か大きな理由があるのですか?」
「そうやって、常にいつも聞いてくるけれど、あなた自身はどう思うのですか?」
「えっ、……日本の国を考えるために書いたのだから、読んでくれよというメッセージを込めたのでしょうか?」
「実は、竹田氏がその理由を「はじめに」で書いていますので紹介します。『本書は、日本人の日本人による日本人のための歴史を目指した。「日本史」とせずに「国史」としたのはそのためである。私たちは何ものであるか、示すことができたと思う』とあります」
「要するに、民族のアイデンティティの確立のために書いたということでしょうか」
「民族という言葉を使うと引っ掛かる人がいるかもしれませんが、要するにそういうことだと思います」
「ここからが本論です ↓」
目次
「日本は天皇の知らす国である」(「はじめに」)
竹田氏の『天皇の国史』の冒頭の言葉です。さらに、その後の言葉を紹介したいと思います――「『日本とは何か』という問いに真摯に向き合うと、自ずとこの答えに辿り着くのではないだろうか。明治時代、大日本帝国憲法を起草する大役を担った天才官僚の井上毅は、第一条を書くために、「古事記」「日本書紀」をはじめとする国史に関係する膨大な量の本を読み込んだ。憲法の冒頭に日本の国柄を、つまり『日本とは何か』を簡潔に書くために、日本国史を総ざらいする必要があった」のです。その辿り着いた言葉が「知らす」という耳慣れない言葉だったのです。
この「知らす/シラス、治らす」というのは『古事記』に出てくる言葉です。ただ、この「知らす」の意味が分かりにくいので、『古事記』は国譲りの場面で天照大神が遣わした神が大国主神に言う場面を用意します。そこで、「知らす」の意味を理解してもらおうという考えがあったと思います――「汝が領(うしは)ける葦原(あしはら)の中つ国は、我が御子の知らす国である、と任命なさった。汝の考えはいかがなものか」(竹田恒泰『現代語 古事記』学研、2016年)と大国主神に迫る場面があります。
ここで、「知らす」と「領(うしは)く」が違うことを読者は理解できます。そして、大国主神と天照大神の御子が出るので、上下関係が明らかになります。つまり、「領く」というのが実際の統治であり、「知らす」というのは「自然の統治」というのが分かる仕掛けになっているのです。
「知らす」という考えにノーベル平和賞を
憲法9条にノーベル平和賞をと言っていた人たちがありましたが、9条には平和を維持する力はありません。アメリカの軍事力によって日本の平和が守られていただけの話です。周辺の狩猟民族は、少しでも自分が強いと判断すれば、お構いなく攻め込んできます。現に、尖閣周辺には330日間(2020年)中国船が現れ、日本の漁船が追尾されたりもしています。世界を見れば、そのような例は多くあります。併合されたり、国境近辺での紛争ありなどで争いは絶えたことがありません。
「知らす」というのは、簡単に言うと国家の一番のトップに権力を与えないというシステムであり、考えなのです。国家のトップに権力を与えるので、戦争が必然的に起きるのです。何故なのか。簡単に言えば、自己の欲望と民を一つにまとめるためです。
人間は無意識のうちに昨日よりも今日、今日よりも明日を求める習わしがあります。そういった気持ちは、統治者も当然ありますし、民も現状維持で満足しないという習性がありますので、自然に国として拡張政策をとり始めます。これが、紛争・戦争の原因となります。
自然界の中に生息するテングザルは殆どケンカをしないそうです。その秘密は鼻だそうです。たくましい猿ほど鼻が長くなり、その代わりに犬歯が短くなるそうです。つまり、強くなればなるほど、その武器となるべき歯が無くなっていくのです。そのため、ケンカができなくなり、テングザルの世界は平和な状態が長く続くそうです。権力者のキバを抜くというのが、自然の教えるところなのかもしれません。
統治者が対内的にどうであったかが一番重要
世界各国が日本のようなシステムを採り入れていれば、少なくとも国内統治において泣く人はいなかったでしょう。もちろん、人間の行う統治ですので、100%完璧という訳にはいきませんが、歴史を見る限り、天皇が日本の国民に権力を振るったことはありませんでした。そんなこともあり、日本は平安時代の300年間、江戸時代の250年間は天下泰平の時代を謳歌しています。
対外的なことを問題にする人がいますが、日本人として考えることは対内的にどうであったかを重要視すべきでしょう。対外的な問題をごちゃまぜにして論じることは避けなければいけないと思います。
例えば、家庭にしても会社にしても、家族や社員のことを常に考える優しい父であり、社長であれば何も問題ないでしょう。その際に、隣の家の人とケンカしたとか、別の会社の社長と怒鳴り合ったということが仮にあったとしても、基本的には関係のないことです。というのは、やむを得ない争いごとだったのかもしれないからです。そうなると、自分のことを犠牲にして家族や社員を助けようとしたという別の評価が出てきます。
日本の歴史学会は対内的な評価と対外的な評価を同じ土俵に並べようとする傾向があるのですが、重要なのは対内的に何を考え、何をなそうとしたのかということです。客観的な歴史という名のもとに、外国勢力と一緒になって日本の行ったことをいつまでも攻撃する傾向があります。
「日本は天皇の知らす国である」と書いた教科書(自由社)を不合格にした文科省
無色透明な客観的な歴史はあり得ません。社会科学であり続けようとする限り、必ず事実や資料をどのような角度からどのように見て、どう解釈するかという問題が付いてまわるからです。
そして、我々が何故歴史を紐解くのかと言えば、そこから教訓を導き出したいからです。まさに歴史に学ぶということです。因果関係が分からないような事実を羅列したような歴史では、歴史に学ぶことは出来ません。
さらに、歴史を学ぶことによって、日本人の生き方がどうだったのか、生き方の手本をそこから導き出したいという思いがあります。大河ドラマを見て、学ぶ点はそんなところにもあります。人物の思い、考え方、それが歴史の舞台の中で浸透していく場面の中に、多くの学びがあると考えます。
教科書の採択は、公立であれば、最終的に教育委員会が、私立であれば現場の責任者がそれを決定します。ただ、検定段階で不合格になってしまえば、現場で採用されることはありません。大きな規準に基づいて審査するのが、教科書検定の本来の在り方でしょう。今回のような思想チェック的な検定であるならば、検定制度は必要ないと思います。現に、アメリカには、検定制度などありません。時間とカネを余分にかけて、憲法が禁ずる「検閲」を行っているようでは話になりません。
読んでいただき、ありがとうございました。
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