「この前、「アフターコロナ」の話をしましたよね」
「ええ、コロナ禍があり、それを境にして政治や経済の流れが大きく変わりつつあるという話でしたよね」
「実は、日本とイギリスの外交関係においても、そういったことが当てはまると思います」
「コロナ禍の前は、良くなかったのですか?」
「そういうことではなく、コロナ禍以降、イギリスが中国を遠ざけ始め、日本に対して接近してきたのです」
「やはり、あの香港問題が大きかったのですか?」
「そうですね、あれでイギリスは中国に対する見方を完全に変えましたね」
「香港については、裏切りと捉えているイギリス人も多いようです」
「1997年に香港がイギリスから中国に返還されましたが、その際に本来返還する義務のない香港島と九龍半島も中国政府を信頼して返還したのですが、その前提条件は50年間は「1国2制度」を堅持するという約束だったのです」
「その約束が反故(ほご)にされたということですね」
「反故どころか、完全な裏切り行為という捉え方です。言論、集会、結社などの権利と自由を保障することを共同宣言に明記されているわけですからね」
「イギリスは結構、中国に好意的だったという印象をもっているのですけど……」
「実は、西欧で中国を最初に承認したのがイギリスだったのです。中華人民共和国の建国は1949年11月ですが、その3か月後には承認しています」
「どうして、そんなに早く承認したのですか?」
「当時のイギリスの政権が労働党であったということが大きいと思います」
「ここからが本論です ↓」
日本はイギリスがアジアで最初に軍事同盟を結んだ国
イギリスはかつての世界の覇権国家です。世界最初の産業革命を行い、政治、経済、外交面で世界をリードしてきた国です。2回の市民革命がありながらも、王室は現在まで存続していますし、日本の皇室とも親しく交流されてきました。
実は、イギリスがアジアで最初に軍事同盟を結んだのが日本だったのです。1902(明治35)年のことです。日清戦争が終わり、まさに日露戦争前夜のころです。
当時のヨーロッパ人は、有色人種に対して差別意識をもっていたと思います。プライドが高いイギリスが何故日本と軍事同盟を結んだのか、2つの理由が考えられます。1つは、ロシアの南下政策を抑えるために、日本を利用しようとしたのです。これについては、教科書にも記述があります。
義和団事件の鎮圧で武功をあげ、信頼をかち取る
もう一つの理由は、日本に対する信頼です。1900年の義和団事件の日本の対応の仕方を見て、イギリスは日本を信頼するようになります。義和団というのは、中国の排外主義の団体です。西洋人とキリスト教に対する中国民衆の反発を背景に急速に勢力を拡大させ、遂には各地で反乱を起こし、北京駐在の外国公使館を2か月以上包囲し続けた事件です。
この事件の鎮圧に、日本を含めた8か国の連合軍が派遣されたのです。教科書はここまでしか書いていませんが、その時の戦いぶりでイギリスは日本を高く評価し、それが日英同盟に結実するのです。
柴五郎中佐の優れた指揮官ぶりについて、当時のイギリス公使館員が「王府への攻撃が極めて激しかったが、柴中佐が一睡もせず指揮を執った。日本兵が最も勇敢であることは確かで、ここにいる各国の士官のなかでは柴中佐が最も優秀だと誰もが認めた。日本兵の勇気と大胆さは驚嘆すべきで、我が英水兵が続いたが、日本兵の凄さはずば抜けて一番だった」という日記を書き遺しているのです(岡部伸『新・日英同盟』白秋社、2020年、197ページ)
さらに英タイムズ社説は「公使館区域の救出は日本の力によるものと全世界は感謝している。列国が外交団の虐殺とか国旗侮辱をまぬがれえたのは、ひとえに日本のおかげである。日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ。日本は欧米列強の伴侶たるにふさわしい国である」と報じているのです(岡部伸 同上、198ページ)
国と国との付き合いや同盟関係の樹立にあたって大事なのは、信頼関係です。それは、個人と個人とのお付き合いでも同じです。その信頼関係というのは、基本的に行動によって生まれるものです。口ではいくら上手いことを言っていても、行動が伴わなければ相手を信頼することはできません。そういう意味で、信頼をえるためには、責任ある継続した行動が大事なのです。
当時の日本人には、他国から信頼される行動が出来ていたということなのでしょう。1902(明治35)年に、日英同盟が結ばれます。しかし、その21年後の1923(大正12)年に日英同盟はアメリカの圧力もあって破棄されることになります。
戦後、捕虜問題で日英間がこじれる
戦後の日英の間に起きた問題は、捕虜の問題でした。日本軍によるイギリス捕虜に対する強制労働の問題が持ち上がった時に、1993年当時の細川首相がイギリス人捕虜に謝罪し、在英の企業に賠償させると言ったことから、日英間がこじれてしまったのです。この辺りは、日韓関係とよく似ています。
個人間の謝罪と国家間の謝罪は意味が違います。そういうことを理解せずに、戦後になって謝れば良いだろう的に「ぺこぺこ外交」を繰り返したために、却って仲たがいが起きてしまったのです。
それでも民間のボランティアや政府関係者の地道な努力、皇室外交もありました。さらには日英間の経済交流もあり、善き方向に向かうようになっていきます。2014年のBBCの調査によると、イギリス人の65%が日本の影響を好意的に受け止めており、その数字はヨーロッパで一番高かったとのことです。
『新・日英同盟』(岡部伸)の時代
イギリスはキャメロン政権(2010~2016)の時に、中国に接近します。2015年に習近平主席が訪英しますが、両国は400億ポンド(5兆6千億円)の投資契約を結んだ上、さらに原子力事業に中国企業を参加させ、中国主導のアジアインフラ投資銀行に主要先進国で最初に参加したのです。
「イギリスは、近年、中国を大規模投資の『資金源』と捉え、香港や新疆ウイグル自治区などにおける人権弾圧、南シナ海での隣国圧迫、知的財産の窃取など、中国の悪行を直視せずに経済関係を優先させてきた」(岡部伸 同上、50ページ)のです。
ところが、そのような中国寄りとも思えるようなイギリスの風向きがコロナ禍で一挙に変わってしまったのです。イギリスから4万人の犠牲者が出たこともあります。そして、昨日のニュースによると、コロナウイルスの新種が発見されたとのこと。中国の初期対応さえ正しければ、ここまで広がることはなかっただろうという思いが、中国に対して敵対的な感情を募らせることになりました。
イギリスのラーブ外相は「コロナ禍後の英中関係は以前と同じに戻ることは出来ない」と発言、さらにジョンソン首相は「中国を敵対的国家とみなし、ファーウェイを完全排除することで、中国と決別する考えを示した」(岡部伸 同上、65ページ) のです。
そして、イギリスが新たな同盟の相手国として「熱い視線」(岡部伸 同上、24ページ)を送っているのが、わが日本なのです。ところが、日本の場合は、憲法上の問題(9条)があって、その熱き期待に応えられないもどかしさがあります。その辺りについては、どこかで機会があれば書きたいと思います。
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